2月15日夜、千葉県の成田空港のなかにある空港反対派の農家が耕してきた畑は異様な熱気に包まれていた。
バリケードは100メートル以上続き、空港の中を“見張る”ためのやぐらの奥には「成田空港絶対反対」と書かれた看板が設置されている。
「警察官の指示に従い直ちに移動してください。この場所は君たちが居座り続けることができません」「君たちが警察の再三の警告に従わないため警察はやむをえず部隊を投入し君たちを移動させる措置を取ります」
再三にわたっての機動隊の警告も効力はない。機動隊と反対派は激しいもみ合いとなり、逮捕者も出た。
「お前らが帰れよ!」
それでも反対派の怒号はやまない。
成田空港の建設を巡り、昭和40年代からはじまり、過去には死者も出した「成田闘争」。
その抵抗のシンボルとされる「やぐら」の解体を巡る緊迫の24時間を現場で取材したテレビ朝日社会部・西井紘輝記者と追いかける。
そもそも成田闘争とは、1966年に成田空港の建設地が三里塚と閣議決定したものの住民と空港建設側などの間でコンセンサスが取れないままプロジェクトが進んだことで対立の溝が深まったことが発端である。
その後、支援者を巻き込んだことで抗議活動が過激化。警察官などが亡くなる事態にまで深刻化し、現在も一部で膠着状態が続いている。
とはいえ、成田空港側が起こした訴訟の判決でやぐらなどの撤去や土地の明け渡しは認められている。
なぜ、反対派は抵抗運動を続けるのか。
この農地を祖父の代から3代にわたって耕してきた市東孝雄さんは
「(裁判の)判決では負けたけどでもそういうもんじゃないと思うんだよね」「私はお金のために戦っているのではなくて、この場所で農家がやりたいんだ」
と語る。西井記者は、市東さんの想いを
「土地自体は既に成田空港のもので、判決で立ち退かねばならないことになっている状況は理解しているものの、心が納得できないのでは」
と推察する。そしてその想いに同調するなどして反対派は集まったのだろう。
機動隊などが到着してからおよそ4時間。事態はついに動く。
午前0時半、ショベルカーなど重機が複数台入ってきたことを受けて、反対派は激しく抵抗。なだれ込むようにして激しくバリケードを押した。
午前1時半、やぐらの撤去が始まり、屋根の部分を作業員が工具を使って取り外した。
午前3時すぎ、長年成田闘争の象徴だったやぐらや看板がついに解体された。
一方、別に設置されたもう1つのやぐらには反対派2人がたてこもり、棒で機動隊をたたくなど激しい抵抗を続けたが、午前4時ごろ2人は排除された。
日が昇り、ようやくすべての作業が終了。
午前10時、農地には囲いの壁が設置され、誰も中に入ることができなくなった。
警察によると、公務執行妨害の疑いでこれまでに3人が逮捕されたという。
しかし、反対派の多くは空港の廃港を目指しており、今後も呼びかけなどを行なっていくものと思われる。
空港の活用など、恩恵を受けている我々には見えないところに様々な人の想いや背景・歴史がある。50年経っても消えないこれだけの怒りのエネルギーの根源には「どう生きるのか」「どこで生きるのか」という人間にとっての譲れないものがあるのではないか。
(「アベマ倍速ニュース」より)