「自分が行くことで、彼ら難民の生活が今すぐ良くなるわけではない。戦争が止められるわけでもない。でも、自分が行って、見て、感じたことをたくさんの人に伝えたい」(MIYAVI)
【映像】シリア難民の前でギターを弾くMIYAVI(※演奏音あり)
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の親善大使を務める、ギタリスト・MIYAVI。この日、MIYAVIが訪れたのは、シリアから150万人の難民が逃れた隣国・レバノンだ。
世界の難民の数は過去最多の1億1000万人に上り、増加の一途を辿っている。最も多いのは、シリア難民だ。その数、約654万7800人。トルコとの国境には難民避難所が広がり、危険な海を渡る光景が日常になっている。
この時期、平均気温が30℃近くになるレバノン。10年前に作られたベカー高原の避難所をMIYAVIが歩く。
現地では電気を使える時間に制限があり、水道もないため、水を汲むのは、子どもの仕事だ。避難所の中にはタンクを持つ子どもがいた。今もここでは約7万人の難民が暮らしている。
久しぶりの来客にMIYAVIの元に集まってくる子どもたち。しばらく会話を楽しんだMIYAVIは「ギターを弾いてもいいかな?」と一言。その音色に、さらに子どもたちが湧き立つ。
MIYAVIがこの避難所を訪れるのは、7年ぶりだという。
「最初は自信がなくて。『音楽が支援になるのか?』と思っていました」
訪問後「ミュージシャンになりたい」と初めて夢を持った子どもがいたと知らされたMIYAVI。今も音楽の力を信じて、難民支援を続けている。
しかし、うれしいニュースとは裏腹に、その後シリア難民の状況は悪化していった。
コロナ禍もあり、前回の訪問から7年経った今、5人の子どもを持つ父親はこう話す。
「私たちの状況は悪くなっています。月収は200ドル(約2万8000円)。何とか生きることで精一杯です。仕事をしたくても、なかなかないのです。子どもたちも、家族のために働いていますが、丸一日働いても日給は1.5ドル(約210円)です」
MIYAVIが「今日は仕事がありましたか?」と聞くと、父親は「私が糖尿病で具合が悪く、薬が必要ですが、買えません。病気は良くならず、なかなか働けないのです。内戦が起きる前は、シリアからレバノンやヨルダンへ出稼ぎにいっていました」と答える。
ウクライナ侵攻によって、避難所でも燃料費や小麦が高騰。しわ寄せは、子どもたちの学びの場にも影響している。5人の子どもは学校に通えておらず、生活は目まぐるしく悪くなっているという。
今はなんとか子どもを学校へ通わせている母親もこう話す。
「子どもたちは朝ごはんを食べずに、学校へ行きます。担任の先生からは『サンドイッチを持ってこないのか』と聞かれますが、家の保管庫には食材が全くありません。1日1食が限界なんです。パンを買うお金もありませんし、働けないのです。子どもは小さく、畑仕事にも行かせられません。栄養失調で発達が遅れ、日向では働けないんです」
12年続いているシリア内戦は、あまりの長さから「忘れられた内戦」といわれている。内戦のきっかけは、2011年に始まった、民主化運動「アラブの春」だ。
先月、シリアはアサド政権として、アラブ連盟への復帰が決定したが、民主化は定着しないまま、いまも衝突が続き、難民の数は増える一方だ。今回MIYAVIが訪問したレバノンの避難所でも、故郷シリアを全く知らない子どもが大勢いるという。
7年前、MIYAVIには忘れられない出来事があった。ウサマ君(当時11歳)との出会いだ。
避難所にいる子どもたちの唯一の楽しみは、サッカーだ。子どもたちとサッカーを楽しむ中、ひときわMIYAVIに懐いていたのが、8人兄弟のウサマ君だった。
子どもたちが喧嘩にならないよう、寄付用のサッカーボールを大人に渡そうとしたMIYAVI。ウサマ君はカタコトの英語で「友達とシェアするから任せて!」と話しかけてきた。MIYAVIは「希望を忘れないで」とボールを手渡した。
ウサマ君との再会を楽しみにしていたMIYAVIだったが、彼は意外な場所で暮らしていた。
■1%の“希望”「第三国定住プログラム」に選ばれたウサマ君
6年前、ウサマ君は難民支援プログラムによってスウェーデンに引っ越していた。今は18歳、もう立派な青年だ。
電話を繋いでもらったMIYAVIが「スウェーデンでは何語を使ってるの?」と聞くと、ウサマ君は「スウェーデン語、英語。これからスペイン語も勉強しようと思っています」と回答。MIYAVIも「それはすごい!」と驚く。
今の暮らしについて聞かれたウサマ君は「落ち着いています。看護師になるための勉強も始めました」と話す。
ウサマ君の顔が映ったスマートフォンを避難所の子どもたちに見せるMIYAVI。ウサマ君の新しい暮らしにみんな興味津々だ。
ウサマ君と他の子どもたちを分けたもの。それは、先進国を中心とした「第三国定住プログラム」だ。ウサマ君のように、受け入れ国に溶け込み、働き手としても活躍する難民が多くいる一方、理解不足から選ばれる数は少なく、世界の難民の1%にすぎない。
立派な青年になったウサマ君にMIYAVIは「このまま前だけを向いて、生きて行ってほしい。幸運に恵まれて、本当に嬉しいよ。ウサマは皆の希望だ。ウサマが頑張れば頑張るだけ、みんなの希望になる。これからも幸運を祈っている。いつか、また会おう」と約束する。
■MIYAVI「ただ助けるのではなく、どのように共存していくか」
7年ぶりのレバノン訪問を振り返り、MIYAVIは「何もよくなっていなかった。むしろ状況は悪くなっている」と話す。
「8年前に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のミッションとして初めてレバノンに行きました。あれから首都ベイルートでの爆発事故や、ウクライナ危機によって小麦がなくなって、パンが作れなくなったり、今年起きたトルコ地震の影響も大きいですね。経済破綻してる中で、『食べ物が買えないのは難民のせいだ』という風潮も影響しています」
レバノン以外にも、バングラデシュやタイ、ケニア、コロンビア、セルビア、モルドバなど、様々な国の難民を見てきたMIYAVI。活動の中で「行くたびに無力感を覚える」という。
「日本が難民支援・難民問題から遠い存在であることは、決して悪いことではないと思います。日本が平和だからです。でもその平和は当たり前じゃない。難民はただ救いの手を求めているわけではありません。彼らこそ、困難を乗り越えてきて、尋常じゃないバイタリティとパワーで生きています。弱い人、困っている人をただ助けるということではなく、彼らとどうやって共存していくか。ウサマ君のように、自分の夢を追いかけられる状況作りを僕たち日本も含めて国際社会がどうサポートできるか。もっと考えるべきだと思います」
(「ABEMA NEWS」より)