8月6日は78年目となる「原爆の日」。平和への祈りの象徴、原爆ドームと広島平和公園はかつてどのような場所だったのだろうか。
今年行われたG7広島サミット。各国の首脳が平和公園で原爆慰霊碑に献花した。1945年の原爆投下前後、そして戦後の平和公園がある場所は、どのように変化したのか。
太平洋戦争開戦前の1939年の旧中島地区(現在の平和公園)の航空写真。撮影したのは旧日本軍だ。商店や旅館など広島市内で有数の繁華街や人々が暮らす家があった。さらに、6年後の1945年。原爆が投下される12日前にアメリカ軍が撮影した航空写真では、街並みが鮮明に確認できる。
原爆投下前の広島は活気に満ちた街だったという。そして1945年8月6日、街並みは一変。原爆投下の5日後にアメリカ軍が撮影した航空写真では、現在の平和公園に位置する建物はほとんどが焼失していることがわかる。
大きな被害を受けつつも、ドーム部分の鉄骨など一部が倒壊せずに残ったのが現在の原爆ドームだ。元は広島県産業奨励館と呼ばれ、県内の物産販売や博覧会などが行われていた。原爆投下から約4年後、1949年ごろのパノラマ写真をみると、現在の平和公園の広場がある場所にはすでに多くの家が建ち並んでいる。人々が復興に向け再び生活を始めている様子が確認できる。
そんななか、この爆心地周辺を恒久平和記念の公園とすることが計画される。住民の移転問題など様々な困難に直面する中で開始された平和公園の建設計画。広島市が設計案を募集した要項には、原爆ドームについて「修理の上存置する予定」と記載され、原爆ドームを保存する意向が確認できる。このコンペで、一等の入選をしたのは世界的建築家として知られる丹下健三氏だ。
当時は原爆ドームの解体を望む声もあったそうだが、原爆ドームを起点として直線上に慰霊碑と原爆資料館を配置することで、原爆ドームを象徴とする設計にした。健三氏の長男で「丹下都市建築設計」の会長・丹下憲孝氏が、当時の父の思いを語った。
「当時、ほかのコンペ案は全く違う構成だった。そんななかで100m道路に対して、垂直の“祈りの軸”を造るというのが父の考え方。原爆ドームを壊すという話は、当時の方々からすると悲惨な記憶を消したい思いがあったようだが、父は『こんなことが二度とあってはいけない。忘れてはいけない歴史の1ページで、平和の象徴として残すべきだ』と。建物群(原爆資料館)、慰霊碑、そこの間から見える原爆ドーム、これらを残す案を作ったようだ」
平和公園完成から11年が経過した1966年。広島市議会の決議で、原爆ドームの保存が正式に決定。保存工事が行われた。1996年にはユネスコの世界文化遺産に登録され、公園とともに、平和を求める象徴として存在し続けている。
原爆投下によって奪われた日常。そこから復興を果たした広島。2023年の今年、78年目の夏を迎える。(『ABEMA Morning』より)