『ポツンと一軒家』(テレビ朝日系)が9月15日に放送され、戦後のアメリカ統治下の時代を生きた男性が当時の話を明かした。
日本各地の人里離れた場所に、なぜだかポツンと存在する一軒家。そこには、どんな人物が、どんな理由で暮らしているのか!? 衛星写真だけを手がかりに、その地へと赴き、地元の方々からの情報をもとに、一軒家の実態を徹底調査しながら、人里離れた場所にいる人物の人生にも迫っていく同番組。
今回は、番組初となる沖縄県でポツンと一軒家を発見。その場所は北部にある森の真っただ中で、三角形に切り拓かれた土地に建物らしきものが確認できる。沖縄の美しい海を臨む最寄りの集落で隣町だという情報を得ると、区長らの協力も続々と集まり、目指す一軒家のある森深くへと向かう。
集落を後にすると、辺り一面まるで原生林のジャングルのよう。山道を登っていくと、沖縄の山から海を臨む絶景が広がっている。そんな美しい景色を眺めながら急な坂を下ると、見えてきたのは、外階段のある二階建ての建物。出迎えてくれたのは、タンカンやシークヮーサーなどを育てるみかん農家の主人で、84歳の男性だった。
1959年に村有地だったこの山を購入し、大工だった父と2人で5年かけてみかん畑へ開拓したという。男性が生まれたのは1940年。4歳の時に太平洋戦争の戦場となった沖縄。幼少期の頃は毎日のように空襲に遭い、防空壕へと逃げる訓練の日々を過ごしたといい、音で戦闘機の種類を聞き分けることができたそうだ。
さらに明かされたのは、アメリカ統治下のエピソードの数々。1945年8月、男性が5歳の時に日本は敗戦。沖縄はアメリカの統治下に置かれ、住民の食料は米軍によって配給された。ポークやメリケン(小麦粉)、トウモロコシなどの各種缶詰は「食べたことがないもの。あの匂いは、まだまだ脳裏に刻まれている。ポークは脂があって美味しかった」。
さらに、チョコレートやアイスクリームもこの時に出会った。「米軍が来ると、そういったものがあるなという先入観がある。こっちはひもじいから期待感を持って全員寄って行く。(アイスクリームは)甘かった。子どもが一番大好きなものだった」「殴られたのも米軍、また助けられたのも米軍」と語った。
1951年、サンフランシスコ平和条約が締結、連合国による日本の占領は終わった。しかし、沖縄は戦後27年間、アメリカの統治下に置かれたままだった。その間、沖縄と本土を行き来するのにもパスポートが必要で、島内で使用する通貨も円ではなくドル。車も右側通行だった。
激動の時代を生き、みかん畑を開拓した男性。今育てているタンカンとシークヮーサーは280本ほどあり、娘婿に継がせようとしているが、応援に来てくれる日曜日以外は1人で作業を続けている。妻は「『やるな』って言っても(やる)。でも、いい運動。家にばっかりいるよりは、できる間はさせようと。娘たちも『自分で行ける、と言う間は止めないほうがいい』と言っている」とコメント。男性は「子どもたち、孫たちに財産を育てたい」と語った。