辣腕の政治記者として、新聞社の経営トップとして、昭和から令和を駆け抜けた激動の人生。読売新聞グループの主筆・渡辺恒雄さんが肺炎のため亡くなりました。98歳でした。
【画像】「政界のフィクサー」「球界のドン」渡辺恒雄氏が残したもの…御厨貴名誉教授に聞く
■「政界のフィクサー」「球界のドン」
“ナベツネ”そんな愛称で親しまれつつ、疎まれもする新聞社トップは後にも先にも生まれないかもしれません。
渡辺恒雄氏 「20世紀末に優勝し、21世紀初頭にまた優勝する。連覇すれば勝ちグセがついて10連覇20連覇する」
渡辺恒雄氏 「(Q.ひと言だけでいいんですけど…?)新聞記者はね、君たちにそんなことしゃべるもんじゃないんだよ」
スクープを飛ばす敏腕記者が、いつしか政界を動かすフィクサーへ。そして、球界のドンとして世間を賑わす人物でもありました。
大越キャスターはNHK時代にインタビューをしていました。
渡辺恒雄氏 「僕の経験からすると、まったく生臭い人情、いろんな意味での人情が政治・外交を動かしている。新聞記者というのは、そこまで入らないと分からない。取材するやつがあまり近寄っちゃいかんとバカなこと言うやつがいるが、近寄らなきゃネタ取れねぇんだ」
■新聞記者から「政界のフィクサー」に
1950年、読売新聞社に入った渡辺氏。転機は後に自民党副総裁となる大野伴睦氏の番記者についたこと。60年代の映像には大野らに交じってタバコをくゆらせる姿が映っていました。記者でありながら秘書役を担い“懐刀”となりました。
最も関係を深めた権力者が中曽根康弘元総理です。一記者時代からの仲でした。
渡辺恒雄氏 「中曽根さんは僕の師匠であり、兄貴であり、家族のような存在。中曽根さんがまだ30代の野党の陣笠代議士、私は新聞社のまだ20代の政治記者の駆け出し時代からのお付き合い」
実際に総理大臣に就任するとブレーン的存在となりました。衆議院の解散を否定しながら臨時国会を召集し、奇襲的に解散に打って出たいわゆる“死んだふり解散”。これを進言した1人が渡辺氏とされています。
■“提言報道”で「憲法改正」訴えも
読売新聞社長に就任したのはソ連が崩壊した1991年。冷戦の終結とともに、一層踏み込んだ政治力が紙面で発揮されます。終戦50年の節目を迎えようとしていた1994年。一面に憲法改正の試案を掲載し、自衛力の保持を明記するよう訴えました。それまで半ばタブー視されていた憲法議論が呼び起こされました。
時を経て2017年、安倍政権時代。その憲法をめぐり、政権と読売新聞との距離感が問われたこともありました。これまた一面で安倍総理のインタビューを掲載。9条に自衛隊を明記すること、2020年施行の目標が打ち出されました。すると、国会で議論が吹き上がります。
民進党 長妻昭議員(当時) 「なんで国会で言わないんですか」
安倍晋三総理大臣(当時) 「憲法について議論する場は本来、憲法審査会の場だと思います」
民進党 長妻昭議員(当時) 「一切ここで言わずに報道やビデオではどんどん発言される。そのやり方について私は非常に違和感を感じる」
安倍晋三総理大臣(当時) 「自民党総裁としての考え方は、相当詳しく読売新聞に書いてあります。ぜひそれを熟読していただいて」
ヤジ 「そんなひどい…新聞読めっていうのかい。そんなバカなことないでしょ」
■“政界を揺るがす”新聞記者
与野党をつなぐフィクサーとして動いたこともあります。2007年、ねじれ国会で窮地に追い込まれた福田康夫総理に、小沢一郎代表率いる民主党との大連立を呼び掛けました。福田・小沢の党首会談が行われましたが、民主党内で反対の声が強く、大連立構想は頓挫。小沢代表の進退が持ち上がります。渡辺氏を直撃すると…。
渡辺恒雄氏 「(Q.小沢党首が…?)こういうところで取材は受けないよ」 「(Q.一言だけ…大連立の…?)新聞記者はね、君たちにそんなことしゃべるもんじゃないんだよ。職業が違う。そういうことは政治家に聞け」
カメラやマイクを向けられると、あくまで「記者」という立場を強調しました。その後、大連立を仲介したことは認めつつも、こんな発言をしています。
渡辺恒雄氏 「私が今、全部バラして書いたら大変な迷惑を受ける人がいるので、次の展開の邪魔になる。だから今は何も書かない。いずれは全部書いてやろうと」
大連立を持ち掛けられた小沢氏は、こう振り返りました。
立憲民主党 小沢一郎衆院議員 「大連立という形以外ないと、感覚的に彼はそう判断したんでしょう。たまたま私もそういう判断だった。その意味では非常に政治感覚の鋭い持ち主だったと思います。私は今でもあの時、大連立をやっていれば、立憲民主党も政党らしい政党に成長できたんじゃないかと思って。その意味では残念です」
■「たかが選手が」“球界のドン”として
もう一つの顔“球界のドン”。元々は、打者が打ったらどちらに走るかさえ知らなかった人物が、読売巨人軍のオーナーとなり、プロ野球界を牛耳りました。長嶋茂雄監督の再登板からドラフトでの逆指名枠の創設、フリーエージェント制の整備に至るまで…。一方で、その権力者ぶりが反発を招いた騒動もありました。
2004年に持ち上がった「球界再編」。10球団1リーグ制への移行を支持し、プロ野球選手会と対立しました。古田選手会長がオーナー陣との直接会談を求めると…。
渡辺恒雄氏 「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が」
この発言の翌日。
渡辺恒雄氏 「今後一切しゃべらんから。選手会長とケンカさせる扇動ばかり。そういうものにひっかからんから。もうだめだよ。一切しゃべらん」
「たかが選手が」と言った後「立派な選手もいるけどね」とフォローしたものの、あとの祭り。1リーグ制は幻となりました。
球団代表を務めた山室寛之さんはこう話します。
東京読売巨人軍 山室寛之元球団代表 「『たかが選手』からガラッと雰囲気が変わるんですね。あれはやっぱりダメだと。相当なインパクトを野球選手たちは受けた。野球ファンの熱量の高まり、塊、そういうものに対しては各球団のオーナーともあまり思い至っていなかった」
巨人軍のオーナーとしての印象を聞くと…。
東京読売巨人軍 山室寛之元球団代表 「野球協約を徹底的に読み込む人。野球のゲームの面白さはあまり分かっていない。勝つことには非常にこだわる。もう1つは野球協約を徹底的に読み込む。オーナーの中で一番詳しい。野球協約の解釈は」
■“保守”でありながら「非戦の思想」
保守であり憲法改正を訴えながらも、先の戦争については責任を厳しく問う姿勢を見せていました。2005年、小泉総理の靖国神社参拝について、それまでの方針を転換し、反対する社説を掲載しました。
渡辺恒雄氏 「僕たちの仲間が自爆を強制されていた。これは許せないって気が今でもある。そういうことをやらせたのはね、東条さんはじめ、あの頃の軍の幹部じゃないか。この連中がね、彼らが殺した被害者たちがいる靖国神社に一緒にいて、外国からみればヒトラーをまつった神社に拝礼に行くと同じですから。それと遊就館というもの。戦争美化・軍国主義・礼賛の施設が靖国神社の中にある。外国の人が来たら皆あきれちゃいますよ」
渡辺氏が生まれたのは1926年、大正最後の年。東京帝国大学哲学科に入学の直後、軍に召集されました。1945年、敗戦の影が濃くなっていたころです。大越キャスターのインタビューにこう語っていました。
渡辺恒雄氏 「帝国主義に対する反発は中学の時から。太平洋戦争が始まったのは中学在学中ですよ。やっぱり軍国主義に対する抵抗だね。(自分も)軍隊へ行ってボコボコに殴られたけど、まぁ耐えていたわけだね。軍の横暴、独裁政治のわるさ、身に染みて」
そもそも哲学を志した人です。徴兵されてもドイツの哲学者カントの本は手放しませんでした。
渡辺恒雄氏 「『実践理性批判』の結語の冒頭だったがね、自分が一生考えていまだに敬意を表しているものが2つある。1つは、上なる星ちりばめたる天空。1つは、わが内なる道徳律である。この道徳的価値というものは、軍隊で弾飛んでこようと、上官にぶん殴られようと傷つけることはできない。俺のものだという一つの哲学があった。それで死に抵抗するわけだ」
大連立構想を提案された福田康夫元総理のコメントです。
福田康夫元総理大臣 「私自身も渡辺さんの御指南を賜りました。そのなかには今もって明らかにできない密議もあります。渡辺さんは間違いなく日本政治の中心におられた方でした。そうした渡辺さんの信念は、私は反戦・平和にあったと思います。戦争の悲惨さを知る世代のジャーナリストとして、二度と同じ過ちを繰り返してはいけないという強い思いを言葉の端々から感じました」
読売新聞によると、先月末まで定期的に出社し、会議にも出ていました。生前に建てた自身の墓には盟友、中曽根元総理が記した墓碑銘が刻まれているといいます。
「終生一記者を貫く」。その生涯は記者という立場を遥かに超えるものでした。
■政治を動かす“当事者”の実像
大越キャスターは2019~2021年にかけて、私は計8回、延べ10時間以上にわたって、渡辺恒雄さんにロングインタビューをしました。そのインタビューにあたって大いに参考にしたのが『渡邉恒雄回顧録』というオーラルヒストリー。この本を作られた東京大学名誉教授・御厨貴さんに話を聞きます。
(Q.政治記者としての渡辺氏をどうみていますか?)
御厨貴名誉教授 「渡辺氏が一番言っていたのは『政治記者は書かなきゃダメだ』と。あの当時、書かれざる名記者はたくさんいました。つまり、政治家にあまりに近付き過ぎて、特ダネをもらって書けない。それが色んなことに役には立つからいるけど、書かない。これは絶対にいけないんだと。書ける材料でギリギリのところまで書く。これが新聞記者だということを繰り返し言っていました。とにかく自分は情報をもらって書いたと。そこにはすごい緊張感があったという話です」
(Q.これを世に出すと信頼関係が崩れるかもしれない。渡辺氏は『いずれ全部書いてやる』とも話もしていましたが、そういった気迫を持っていた記者だったのでしょうか?)
御厨貴名誉教授 「気迫があったと同時に、本当に真面目でよく勉強する人でした。何かやる時に徹底的に調べて、どうやって相手の懐に飛び込むかを常に考えていました。その熱量は他の記者では到底、及ばないものがありました。渡辺氏が段々、色んな意味で影響力を及ぼすにしたがって、反対がないわけではないですが、みんな渡辺氏ほど勉強していない。だからやられてしまう。そういう意味で自分に対して正直な人でした。ただ、どんどん特ダネ記者になっていくプロセスの中で、一番まずかったと思うのは、自民党の派閥の中に自ら飛び込んだこと。なぜ大野派だったのか聞くと、『総理派閥に入っても情報は来ない。総理に一番近い第2番目の人のところが情報が集まる。だから自分はそこに行った』と。普通だったら記者さんで終わるところが、渡辺氏は政治家の前で演説もするようになりました。どんな話をしているか聞いたら『大野派の将来について。あの当時の代議士はそんなもんで、よく分かってないから、自分が行けばやれちゃう』と。それをやっているうちに人事も任されるように。それを得意げに楽しげに話していました。取材者というよりプレイヤーになっちゃった。渡辺氏の間違いは、権力を批判しているうちに、いつの間にか権力になってしまったこと。権力を抑制しながらやらないといけないはずが、そういう気持ちが全然なかったです」
(Q.当時の中曽根総理との話を一番いきいきと話していた印象がありますが、いかがですか?)
御厨貴名誉教授 「中曽根総理とは、若い頃から一緒に読書会をやっていました。政治家の読書会は、読書はどうでもよくて、その後に酒を飲んでというのが多いですが、渡辺氏の場合は本当に勉強していました。中曽根が総理になった時から、渡辺氏は仕える立場で、決して友人だとは言いませんでした」
(Q.当時の自民党総裁選は現金が飛び交うなど、大変な状況だったと渡辺氏は話していました。渡辺氏が生きたあの時代の取材の在り方や政治の姿は、今にも引き継がれているとみた方がいいですか?)
御厨貴名誉教授 「引き継がれていると思います。ただ、今の記者が派閥に乗り込んで演説することは、渡辺氏本人が禁止したと言っていました。そんなことをやられたら困ると。そんな茶目っ気があるような行動をしながら、自分の政策領域を広げていき、情報を得る。そこがすごかったです」
■球団オーナーの“野球観”
(Q.球団オーナーとしては、どんな印象を持っていますか?)
御厨貴名誉教授 「基本的に野球が好きじゃない人だから、やっぱり好きじゃない人がやるのはまずいですよ。渡辺氏と話すといつも『どうしてバッターは打ったら1塁に行かなきゃいけないのか。3塁に行ったらいけないのか。そこの論理的説明は誰もしていない』と言っていました。野球協約には興味がある人。これは一般的な興味とは合わない。一生懸命やる人でしたが、ちょっと違ったかなと」
(Q.ある意味、昭和を象徴する人だったのでしょうか?)
御厨貴名誉教授 「まさに“昭和の男”です。渡辺氏にとってみれば、平成の総理は何となく合わない。要するに子ども扱いになっていくわけです。そして今度は自分のところに呼びつける側になりました」
(Q.読売新聞で政権に対する提言報道もありましたね?)
御厨貴名誉教授 「自分の使命は、そういった人たちに教えていくことだと。ただそれが、読売新聞の社長としてやる。あるいは会長としてやることに問題がなかったかどうかは別問題です」
(Q.亡くなるまで主筆という肩書にこだわっていましたがどうみますか?)
御厨貴名誉教授 「渡辺氏は主筆という言葉と同時に“筆政”を大事にする。最後の最後まで渡辺氏の看板は主筆。これはやめないと。これが自分の命だと。ただ、そこまで思ったのなら、どうして引き際を考えなかったのかと思います。渡辺氏には引き際の美学というものがありません。だから常に浮遊していて、止まるところがない。止まるところがないから、また権力的なところに手を伸ばしていく。そこが最後はちょっと悲しいかなと」
(Q.後ろに続く、自分に代わる記者を育てることには熱心でなかったですか?)
御厨貴名誉教授 「全然、熱心じゃなかった。本人が面白いからやっちゃう」
(Q.長い時間をかけた記者人生は敬意に値しますか?)
御厨貴名誉教授 「経緯に値するし、こういう人は2度と出ないだろうなと思います」