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その日見た夕焼けは、場違いなほど美しかった。

【動画】「輪島を諦めない」震災と豪雨で心折れながらも、輪島朝市で再建を目指す店主

能登半島を襲った記録的な豪雨から約2週間後の、昨年10月。私(筆者)は、甚大な被害を受けた石川県輪島市町野町や能登町内を、ある被災者と一緒に車で訪れた。

崩れた山肌、行く手を阻む流木、土砂に埋まった家屋。走っても走っても、車窓からは、痛々しい景色が目に飛び込んでくる。

「山津波」。地元紙がそう報じた土石流の猛威を目の当たりにした。

町野町へ向かう途中、ところどころ通行止めになっていて、そのたび、車は迂回した。車道のすぐ脇で、家屋の前の道路がパックリと割れ、もとは地中に埋まっていたはずの水道管がむき出しになっているのを見たときは、衝撃でカメラを落としそうになった。

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「ここも抜けとる」

「ひっでえなあ」

隣でハンドルを握る男性がつぶやく。

運転してくれたのは、輪島市の食堂店主・紙浩之さん(55)。紙さんが、私を車に乗せてくれたのには、ワケがあった。

紙さんと初めて会ったのは、能登半島地震からひと月ほど経った2月のことだった。壊滅的な被害を受けた輪島朝市が、どのような町だったのか。そこに暮らし、店を営んでいたのはどんな人々だったのかを取材していた私は、「朝市さかば」という食堂があることを知り、店主の紙さんに話を聞かせてもらっていた。

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紙さんは、震災前まで約12年、「朝市さかば」を切り盛りしていた。

観光客が朝市で買った食材を店に持ち込めるようにして、それを格安で調理したり、地魚だけを使った料理を提供したり、といった手法で話題をよび、雑誌やテレビに取り上げられたこともある。

地震によって発生した大規模な火災で、店は全焼。

焼け野原となった観光名所を歩きながら、紙さんは「絶望しかない」「町の復興が描けない」と私に繰り返し言っていた。

だが、話を聞いていくと、町を残したいという気持ちが伝わってきた。

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紙さんの店には、アルバイトや手伝いに来てくれる若者たちがいた。

子どもがいない紙さんにとって、自分の店に来てくれていた若者は、わが子のように可愛かったという。

「その子たちの将来を、考えるようになってね」

いつか、彼らが戻ってきたいと思えるような町を残したい。そのために、食堂を再建したいと思うようになったという。

まずは、事業者が営業再開するための県の補助金を使ってキッチンカーを購入し、仮設住宅に弁当販売をするところから始めたい。

そんな話をしてくれた。

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東京で働く私は、紙さんと何度かメールをやり取りしていたが、春以降はほとんど連絡を取らなくなってしまっていた。きっと、キッチンカーを買う準備や、食堂再建のために忙しい日々を送っているのだろう、と思っていた。

10月初め、半年ぶりに紙さんからメールが来た。数行読み、息をのんだ。

誰に伝えれば良いのかわからず。独り言を聞いてください。
今回の豪雨で、数人の行方不明者が出ていました
その中に、私が店をやっていた時に手伝いに来てくれた子どもの名前がありました

名前は伏せられていたが、9月の豪雨で行方不明になり、その後170キロ離れた沖合で遺体で発見された輪島市の中学3年生、喜三翼音さん(当時14歳)のことだとわかった。

文字を目で追いながら、胸が締め付けられていく。

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その子が住んでいた久手川町を、車で見に行ってみました
バイパスを進んで、久手川町に入った瞬間 涙が止まりませんでした

今回の出来事はかなりきつい
きつい出来事のスパンが短すぎる

それまで淡々としている印象が強かった紙さんと、同じ人とは思えないほどの深い悲しみが、文面から伝わってきた。

「何があったのか、話を聞かせて欲しい」

それだけ返信し、紙さんが仕事が早く終わるという日に合わせ、輪島へ飛んだ。

■母含め親族4人が相次いで他界

紙さんは、自宅から車で40分かけて、穴水町にある災害ごみの仮置き場で働いていた。再会したときは地震直後に会った時よりも、憔悴して見えた。

私を車に乗せると、特に豪雨被害が激しかった場所を案内してくれた。爪痕が生々しく残る奥能登を走らせながら、吐き出すように、これまであったことを話し始めた。

3月、闘病生活をしていた母・和子さん(当時76歳)が他界。当時、輪島市内にある葬儀場は避難所になっていて使えず、葬式をあげることもできなかった。

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地震後、和子さんを含め、親族4人が亡くなった。うち一人は、災害関連死の疑いがあった。

親族を相次いで亡くした紙さんに追い打ちをけたのが、9月の豪雨災害だった。犠牲者の一人、喜三翼音さんが、かつて「朝市さかば」に社会勉強のために手伝いに来ていた中学生だったのだ。

紙さんは店を始める前、地元で港湾工事や建設業に身をおいていた。そこで、久手川町に通じるバイパスの建設に携わった。久手川町は、塚田川が氾濫し、喜三翼音さんが、自宅ごと濁流に飲みこまれた場所だった。

かつて、自分が建設にかかわった地で、自分の店に来てくれていた子どもが、命を落としたーー。

ハンドルを握る紙さんの表情を、私は直視できなかった。

■豪雨で亡くなった女子中学生、紙さんの店で社会勉強していた

紙さんが翼音さんに出会ったのは、地震発生の半年前、2023年の夏の終わりごろだった。

忙しい時期に、すこしでも手伝ってくれる人を探していたところ、店の向かいで、輪島塗の器を販売していた夫妻が孫の社会勉強にと、声をかけてくれた。

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それが、当時中学2年生の翼音さんだった。

「翼音に聞いたらやってみるって。うれしそうでした」

祖母の喜三悦子さん(64)は振り返る。

■飲み込みが早かった翼音さん

紙さんによると、翼音さんは最初、恥ずかしがって『いらっしゃいませ』がなかなか言えなかった。「でも、挨拶して人から可愛がられることっちゃあ覚えさせんと」。

日本の将来は人口が減るから、働き手がなくなる。「個人事業主」になってもやっていけるようにーー。

紙さんはことあるごとに、お店に手伝いに来る若い世代に伝えていたという。挨拶だけでなく、身の回りのものを整理整頓すること、わからないことがあったら、まずは自分で調べてみること。そんなことを教えていたと振り返る。

「シャバに出て役に立つことを覚えろっちゃあ、言っていたよ」と話す。

翼音さんは、飲み込みが早く、同じ時期にアルバイトに来ていた高校生にも可愛がられていたという。気が付くと、配膳しながらでも「いらっしゃいませ」が言えるようになっていた。

「今も思い出す。優しい子だった」

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大晦日。地震発生の前日まで手伝いに来てくれた翼音さんは、祖父母と車で帰った。紙さんが翼音さんに会ったのは、その日が最後になった。

「親でもないけど、俺の命なんかくれても良いと思っている。今からやさけ」

前を向いたままそうつぶやく紙さんに、かける言葉は見つからなかった。

くすんだ景色に目が慣れたころ、突然、車窓から夕焼けが見えた。水色とピンクが交じり合った空に薄く染められた雲がゆっくりと流れていく。こんなに美しい夕焼けなのに、視線を落とすと、広がるのはえぐれた大地と、むき出しになった山肌。能登の人々は、そんなギャップのなかで日々を過ごしてきたのだ。

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■祖父と考えた「Hanonカップ」 寄り添う2羽のフクロウに込められた意味

喜三翼音さん(当時14)が亡くなった約2カ月後。11月に東京都内で開かれた「出張輪島朝市」のブースに、ある商品が並んだ。

「Hanonカップ」。漆器のマグカップに、2羽のフクロウが寄り添う絵がほどこされている。輪島塗の蒔絵(まきえ)師でもある翼音さんの祖父・喜三誠志さん(63)が手がけた。

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震災後、翼音さんは誠志さんの「出張輪島朝市」を手伝っていた。

前年に紙さんの店で手伝った経験がいきたのか、接客がとても上手だったという、翼音さん。

「いつの間にか、呼び込みから何もかもすべて自分でやるようになっていた」と誠志さんは目を細めた。

紙さんが教えていた、「シャバに出て役立つこと」。翼音さんは実践していたのだろうか。

そう問う私に誠志さんは「それもいい経験になったと思う」と答えた。

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「頼もしい存在になるなと思っていた。私たちのお店の、看板娘になるなと」

お店の看板娘にーー。

誠志さんが思うほど、翼音さんは成長をみせていた。そんな翼音さんが、「私が売ってあげる」と誠志さんに伝えたのが、あのカップだった。

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それまで、誠志さんが描くものに興味を示したことはほとんどなかったという。祖父が描くフクロウを見て「これ可愛い。でも翼音だったらこういう風に描きたい」

祖父が描いていたフクロウに、孫のアイディアが加わっていった。翼音さんは、フクロウの数を2羽にすることにこだわった。

「カップルにも親子にも、きょうだいにも見える。使う人次第でいろいろな考え方ができるからと」

■売り出された初日、豪雨災害で帰らぬ人に

二人で考えぬいたカップが出来上がった。しかし、店先に商品が並ぶ様子を翼音さんが見ることはかなわなかった。

最初に売り出したのは、能登半島に激しい雨が降り注いだ、あの日だったからだ。

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「キッチンカーなんてやめようと思った」。翼音さんの一報を聞いて、紙さんはそう思ったという。

「朝市で若い子どもらが商売できる環境を整えたいと思ってやってきたのに、その子どもが亡くなった」

やったって、意味がないーー。

現実は、時に皮肉だ。

紙さんがそう思ったころ、それまで認められていなかった、キッチンカー購入のための事業者向けの補助金が、県から下りたという通知が届いた。

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12月。紙さんのもとに、中古のキッチンカーが届いた。

淡いブルーと薄いベージュが合わさった小さな車体を前に、「俺に似合わんね」とはにかんだ。

私は、「Hanonカップ」を一つ購入し、紙さんに届けた。ブルーとピンクの小さなフクロウが寄り添っている。

「あの子のような、優しい感じがするね」

愛おしそうにカップを手にして、紙さんはそう言った。

「Hanonカップ」を手にする紙浩之さん
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一度は「やっても意味がない」と思ったが、紙さんは、キッチンカーを使った営業再開を目指すことにした。心の支えになっていることがある。それまで店に来てくれていた、若者たちとのやり取りだ。

「(朝市)さかばで習ったことが、自分にめっちゃ役立っています」

「子どもが生まれたら、あやしてね」

そんなやり取りのラインを、見せてくれた。

LINE
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「夏祭りはあるか、と(働いていた)子どもがラインで聞いてきた。なくなったらそれもできん」

2024年の正月に起きた能登半島地震から、1年が経った。

甚大な被害からの復旧もままならない中で起きた記録的豪雨は、復興に向けて歩みだそうとしていた人々の心を折り、傷をさらに深くした。

震災と水害という二重災害がもたらした深い爪痕は、残されたままだ。

喜三翼音さんの自宅跡で手を合わせる紙浩之さん
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海も山も、変わり果てた。それでも、輪島を離れず、つらい現実と向き合い続ける紙さん。

なぜ、そこまで頑張れるのか、私は聞いた。

「輪島が好きやし。終わらせたくもない」

涙が出そうになるのをぐっとこらえて、そう話した。

1年ぶりに自宅で料理する紙浩之さん
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(取材:今村優莉、撮影:井上祐介)

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被災から3カ月…全焼した写真館の店主が輪島を離れない理由 能登半島地震
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