江戸のメディア王・蔦屋重三郎が仕掛けた「写楽28枚デビュー」とは?
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 今、話題となっている江戸のメディア王、蔦重こと蔦屋重三郎がプロデュースし、その後、世界をも魅了した人気絵師が東洲斎写楽です。

【画像】写楽は複数いる? 第1期と異なる第2期以降の絵

謎多き世界的人気絵師の正体

 彗星の如く世に現れ、活動期間は約10カ月と1年も満たないまま姿を消しました。謎多きこの天才浮世絵師の作品と正体に、歴史作家で大河ドラマの時代考証も務める山村竜也さんの解説で迫ります。

山村竜也さんが解説
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武隈光希アナウンサー
「蔦屋重三郎がプロデュースしたというところで、どんな売り出し方をしたのでしょうか?」

山村さん
「新人である写楽の大首絵を一気に28枚同時に売り出したという、新人としては異例のそういう売り出し方をいたしました」

大量の作品を世に出すという鮮烈なデビュー
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 何の前触れもなく大量の作品を世に出すという鮮烈なデビューでした。

武隈アナ
「何の前触れもなく、いきなりその28枚という量を世に出すって、やっぱり鮮烈な形だったんですかね?」

山村さん
「新人にそういうことってあまりやらないんですね。つまり、失敗してしまうかもしれないから」

武隈アナ
「そうですよね。リスクもありますもんね」

山村さん
「そう、そのリスク。それを考えた上で、蔦重は大丈夫だ、いけるということでね、大量の絵を一気に発売した」

デビューの第1期から第4期まで4つの段階に分類
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 写楽は活動期間およそ10カ月で約140点を発表しました。その作風は、デビューの第1期から第4期まで、4つの段階に分類できるとされています。中でもよく知られている作品の多くは第1期に集中していて、すべてが役者絵でした。ここには、蔦重の戦略が潜んでいるとみられます。

 山村さんは、江戸の芝居事情と絡めて、その狙いを解説します。

歌舞伎界を盛り上げるため?
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山村さん
「当時、江戸には江戸三座という芝居小屋があって、寛政6年という年なのですが、その年の夏にかかっていた芝居、それの演者を描いてるんですね。本来はもっとスター役者を使ってもいいんですが、この28枚の中には、意外と無名の役者もいる。場合によっては格の低い役者たちからお金を募って描いたと。そうすることで、出版社、つまり蔦重側も出版がしやすくなるわけですね。それと、当時の芝居、歌舞伎の人気的に落ち込んでいる時期だったんですね。ですから、歌舞伎の興行主側も金を多少出すから、それを出版していただいて、そして歌舞伎界を盛り上げていただきたいと、そんな風に蔦重と話し合いがなされていた可能性はあります」

武隈アナ
「ある意味、広告的な役割も」

山村さん
「そういうことですね」

スターを美化しない「欠点強調」写楽デフォルメの妙

喜多川歌麿の美人画
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 上半身をアップにした大首絵といえば、喜多川歌麿の美人画がよく知られています。

武隈アナ
「歌麿の美人画と写楽の役者絵、どんな違いがあるんですか?」

山村さんは、美人画が女性を美しく描くのに対し、写楽は役者を格好よくではなく、徹底してリアルに描いたと説明します。

役者をリアルに描いた写楽
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山村さん
「美人画は当然女性を美しく描こうという絵ですね。で、役者絵も本来は役者をスターとして格好よく描く。そういうものでしたね。ところが、写楽の描いた役者はあまりかっこよくないんですね。格好よく描くというよりは、リアルに伝えるような、顔のしわですとか、そういったものを丹念に描いたり、それから女形の場合なんかね、本当はその女性に見えなくちゃいけないんだけれども、男性に見えちゃうような、そんな描き方も写楽は平気でしたというところが変わっているところですね」

 そんな写楽の代表作が、三代目大谷鬼次の江戸兵衛です。歌舞伎の演目『恋女房染分手綱』を実際に取材して描いたとされます。

「このデフォルメの妙」
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山村さん
「実はこの相手に掴みかかろうという絵なんですけども、何が良いかというと、やっぱりこのデフォルメの妙でしょうね。これ役者の顔つきなんだけれども、このエラが張っているんですね、この人ね」

武隈アナ
「そうですね、だいぶ特徴的な」

黒くグッと結んだ口
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山村さん
「エラが張ってるところを隠さず、そして口ね。特徴なのは、左右で黒く、グッと結ぶという、これは割と写楽のオリジナルな部分なんですね」

武隈アナ
「そうなんですね。手のサイズ、特徴がありますね。かなり小さめに描かれているなという感じしますけど」

 山村さんは、このアンバランスさも画面のインパクトを強める工夫だったと見ています。また、あまりに独特なデフォルメから、正統な修行を積んだ絵師ではなかった可能性にも触れます。

アンバランスさも工夫
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山村さん
「そうすることでインパクトを逆に与えているのだと思うけれども、ただ、言われているのは、本当に絵の修行している絵師だったら、こんな描き方をしないだろうって言われている。変わったデフォルメの仕方をするというところを見ると、元から修行を積んだ絵師ではなくて、やはりそうではない何か理由があって飛び出してきた、そういった存在だったのかなと、そんなふうに考え方もあります」

 鮮烈な第1期の後、第2期以降の作風は変化します。

第2期
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山村さん
「第2期になるともう既に大首絵じゃないんですね」

武隈アナ
「でも大首絵が世の中に受けたのに、それをもうぱっと捨てちゃったわけですか?」

山村さん
「そうなんですね。それから絵柄も若干第1期と違っている感があるんですね。その感じは第3期、第4期にもつながっていて、段々ね、言ってはなんだけれども、しりすぼみのような、そういうところはありました」

第3期、第4期
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 この変化の背景について、山村さんは難しい問題だとしつつ、次のような説を挙げます。

写楽は複数いる?
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山村さん
「これね、大変難しい話なんですよ。ただ1つ考えられるのは。最初の絵はいわゆる写楽だったんだけれども、その後受け継いだ別人が描いたという、そんな可能性もね、取り沙汰されてはいるんですね」

武隈アナ
「複数いると?」

山村さん
「複数いると、1つの考え方ですけどね」

 山村さんが時代考証で携わったドラマでは、写楽を複数の絵師や作家が集まった「オールスター」のように表現しました。作中の彼らは、既存のどの画系にも属さない孤立した存在として描かれます。

既存のどの画系にも属さない孤立した存在
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山村さん
「当時の絵師の分布図といいますかね、そういったのが残っていまして、写楽がポツンとあるのが見えますよね」

武隈アナ
「離島のような…」

山村さん
「離島のような他の絵師と交わっていないどの画系にも属さない形で存在しているというところが特徴的ですね」

 近くには、同じく蔦重がプロデュースした喜多川歌麿の名も記されています。しかし、この二人の関係は良好ではなかったようです。

喜多川歌麿との関係は…
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山村さん
「あまり関係性はよくなかったようですね。歌麿にしてみればね、蔦重は本当は自分と一緒にやっていたのに、写楽の方に乗り換えたみたいな、そんなふうな印象があったんでしょうね。で、そんなこともあって。歌麿は写楽のことをこんなふうに言ったりしていますね。“わるくせをにせたる似つら絵”にはあらず。つまりこれは、写楽の役者絵は顔つきの欠点を強調しているそんな駄目な絵なんだよと。そういう絵を自分は描かないよということを歌麿が写楽を批判していることなんですね」

武隈アナ
「かなりしかも痛烈にと言いますか、明確に批判していますね」

なぜ10カ月で筆を折った?「写楽は誰か」論争 能役者か、それとも若き葛飾北斎か

 写楽が短期間で筆を折った理由についても、江戸時代の文献に記録が残っています。

浮世絵類考
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山村さん
「浮世絵類考という本があって、それは大田南畝や式亭三馬らによる本なんだけれども、写楽は歌舞伎役者の似顔絵を描いていたが、あまりにも真実に迫ろうとして不都合な様を描いたので、長く活躍することができずやめてしまったというようなことが書いてあるんですね」

武隈アナ
「やはり役者側にとってもあまり嬉しくないような描かれ方であった?」

山村さん
「世間にしても実はそのインパクトは大きかったけれど、リアルな絵という役者絵を求めていたかどうかは、ちょっとわからないんですよね。やっぱり役者はそういうスターのブロマイドとしてね。そういったものとして庶民は持っておきたい。それがリアル路線で描いた写楽の絵はどこまで庶民に受け入れられたか、ちょっと微妙なところがあるんですね」

 たった10カ月で約140点もの斬新な作品を発表した写楽は、その正体をめぐって今も論争の的です。

武隈アナ
「ここまで伺って気になるのは、やっぱり写楽は一体誰なんだということが気になってしまうんですけれども、先生、今どのように感じていますか?」

 山村さんが現時点で有力とみる説は、阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛説です。

阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛説
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山村さん
「現在、有力な説になっているのは阿波藩の能役者、斎藤十郎兵衛という人がいて、その人が写楽であったという説が現在有力ですね」

武隈アナ
「その理由といいますのは?」

山村さん
「それはね、先程の浮世絵類考に書いてあるんですね」

 さらに、この説を補強する作品も紹介されます。

団扇に描いてある絵が写楽の絵
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山村さん
「栄松斎長喜という人がいて、蔦重や写楽たちと同時代の絵師なんですけれども、この栄松斎長喜の描いた絵に面白いものがあるんですよ。この美人画の美人が手に持っている団扇。この団扇に描いてある絵が写楽の絵なんですね。こんなことを描いたということは、何らかの意図があるかなと。1つにはね、当時の絵師仲間の間でも写楽というのは有名だったんだよと、もう1つは栄松斎長喜っていうのは、実はね、斎藤十郎兵衛説をとっている人なんですね。これもね。正体を分かった上でその栄松斎が言っている以上、斎藤十郎兵衛説がかなり有力になるんじゃないかなとね。そのように思うんですね」

 一方で、別の有力候補として葛飾北斎の名も挙がります。

葛飾北斎の名も…似ている2人の絵
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武隈アナ
「先生、以前のお話でも北斎の説があるんじゃないかということを話していましたよね?」

山村さん
「斎藤十郎兵衛であるか北斎であるか、これは、五分五分とは言わないけれども、そのように私は考えていますね。北斎の若い頃の絵が実は写楽の絵によく似ているんですよ」

武隈アナ
「めちゃくちゃ似ていますよね!」

 写楽は葛飾北斎だったのか。写楽の役者絵と若き日の北斎の作品を見比べると、構図や線の勢い、人物の誇張の仕方など、驚くほど似通った点が浮かび上がります。短期間で姿を消した謎の絵師の正体は、阿波藩の能役者なのか、それとも後に世界的な巨匠となる北斎自身なのか。蔦屋重三郎の周到な戦略と、同時代の絵師たちの複雑な感情を映し出す写楽論争は、今もなお続いているのです。

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