
死者・行方不明者が2万2000人を超えた東日本大震災からまもなく15年です。
9日からの3日間は、甚大な被害をいまも物語る岩手・福島・宮城の“震災遺構”からの中継を交えて、“被災地のいま”を伝えます。
【画像】同じ場所にかさ上げの街・沿岸部から内陸へ集団移転…それぞれの“街の復興”の今は
※映像の冒頭に津波の映像が流れます。

死者・行方不明者が合わせて1807人にも上った岩手県・陸前高田市。
市街地は、津波で跡形もなくなってしまいました。
「同じ場所に」選んだ“かさ上げ”

もう一度、同じ場所に街をつくりたい。
事業全体で1600億円を超える被災地最大規模の復興工事が始められました。10メートルほど高さを上げる、いわゆる“かさ上げ”工事に8年をかけました。
同じ場所にこだわった理由。

陸前高田市土地活用推進課 高橋宏紀課長
「商業が盛んだったところに、皆で戻りたいという思いもあって、かさ上げをして、商業地とか住宅地をつくろうと」
真新しい街並み。
ここで惣菜店を営む橋詰真司さん(50)にメインストリートを案内してもらいました。しかし、少し歩くと、草が伸び放題の空き地が目立ちます。所有者が住んでいません。

橋勝商店 橋詰真司社長
「人通りは、本当に閑散としているので、ここににぎわいをと、日々、思っていますけど」
工事完了を待てず、ほかの場所に家を建てた人が相次ぎました。
橋勝商店 橋詰真司社長
「(震災前)住んでいた方が多いので、ここに住みたいと思う、正直。8年かけて(かさ上げ地の)造成をしたなかで、ここに戻れない」

空き地の所有者と、利用希望者をマッチングする市の制度がありますが、民間の土地の約7割が使われていません。
かさ上げの街 課題と挑戦
街をなんとか盛り上げたい。橋詰さんは15年前から、人が集まる場所をつくってきました。
先月、事業者に協力を求めます。

橋勝商店 橋詰真司社長
「街にどう人を集中させるか、楽しませるかを、中心として考えながら、出店者を募集していきたい」
いま、活かしたいチャンスがあります。

陸前高田市には、年間130万人が訪れています。ただ、人が集まる追悼施設や、道の駅は海沿い。市街地にどうやって人の流れをつくるかが、カギとなっています。

そこで、去年、始めたのは、商店街の歩行者天国イベントです。1日1000人近くが集まることもあります。
15年経って思うこと。
橋勝商店 橋詰真司社長
「『この土地で、もう一度、再開するんだ』という強い思いを持った結果が、こういう形。たとえ歯抜けでも『本当に最高なんだ』と言える街を、これからつくりたいという思いで、きっと生活している」
集団移転 沿岸部から内陸へ
一方で、違う再建方法を選んだ街があります。

宮城県岩沼市の玉浦西という新しい街に、約900人が暮らしています。
小林喜美雄さん(78)も、その一人です。

小林喜美雄さん
「ここにスーパーはあるし、車で出ても高速道路は近いし、街は近いし、暮らす分には、元よりはいいんじゃないかな」
スーパーや公園も備えた、暮らしやすい街が生まれた理由は、津波で家を失った小林さんたちの海から離れて暮らしたいという思いでした。

その決断をしたのは、小林さんの地区だけではありません。海沿いの6地区が、一緒に動きました。理由の一つは、復興のための費用でした。
小林喜美雄さん
「6つの集落があった。復興予算がバラバラになるので、1つにまとまったほうが、何をつくるにしても、予算的にもいいんじゃないかと。結局は、皆で話し合って、ここにしましょうと」
6地区が集まることで、使える金額は桁違いに。総事業費120億円以上を一つの街に、かけることができました。地震の4年後には完成し、仮設住宅から多くの人が移り住んでいます。
小林喜美雄さん
「街の復興、ハード面では、もう終わったんじゃないか」
集団移転のニュータウン 課題も

小林喜美雄さん
「もう、完全に都市化してる。いまは、昔からの町内の知り合いの人たちだけど、世代交代していくと、ここの息子さんは、どういう人だかわからないとか。街全体でのつながりは、あんまりないんじゃないかな」
つながりがなくなれば、孤立する住民が出てくるといった危機感から、花見や夏祭りなどのイベントが、毎年、行われています。
小林喜美雄さん
「ずっとどこまでもソフト面では、つながっていかないとダメ。それは、どこの街でも一緒。ここだけじゃないと思うんですよ」
かさ上げ地の下に建つ“遺構”

小木逸平アナウンサー
「あれから15年。街の姿はまるっきり変わり、人と人との結びつきも、そのあり方の模索が続いています。そして、もともと街があった場所は、更地が広がっていますが、かつての姿のままで、心のよりどころになっている建物があります。ここは『米沢商会』というお店でした。パッケージやお菓子の材料を販売、長年、地域で親しまれてきたお店です。このビルを“震災遺構”として、個人で残し続けている米沢祐一さん。米沢さんは、当時、ご両親と弟を津波で亡くしましたが、自身は、この場所で奇跡的に津波から逃れました。いまも津波の爪痕も残っています。米沢さんに聞きます」
煙突にのぼり“九死に一生”
(Q.15年前、避難できなかったのですか)
米沢祐一さん
「いえ、うちの両親と弟は、すでに避難所に避難していました。私だけが避難せずに、このビルに残っていました。なぜかと言いますと、30秒ほどで避難所まで避難できたので、3階の様子を見てから、避難しても、全く遅くないだろうという考えで、自分は、3階に上ってきました」
(Q.危ないなと思ったのはいつ)

米沢祐一さん
「たまたま、3階の窓から外を見たんです。窓の外が、真っ黒になっていまして、津波が目の前まで迫っていました。『これは、まずい』と思いまして、もっと高いところに行かなければと思い、屋上に向かう階段を駆け上がっていきました」
(Q.屋上まで駆け上がってきて、景色は、どういう状況でした)

米沢祐一さん
「見渡す限り全部、真っ黒でした。人の家の屋根なんか一つも見えない状況でした。それで、ここにハシゴがあるんですけど、このハシゴを駆け上がっていました。ハシゴを駆け上がっている途中で、津波が屋上の手すりを超えてきた。それで、自分は、津波に追われるように。どんどん水位が上がってきて、最終的には、煙突まで駆け上がって、ギリギリ津波に耐えました。ギリギリでした」
(Q.煙突に行ったとき光景は)
米沢祐一さん
「周りは全部、真っ黒い、津波で。360度、津波で。本当に大嵐のところに、一人、しゃがんで。そういう状態でした。後ろを振り返りましたら、本当だったら(両親と弟がいる)避難所が見えるはずなんですけど、津波の底に沈んで、市民会館(避難所)は見えませんでした」
津波被害のビル 遺した思い
(Q.悲しい思い出、苦しい思い出の場所でもあるこのビルを、残そうと思ったのはなぜですか)
米沢祐一さん
「まず、ここが自分を助けてくれた命の恩人であることと、家族との思い出があるということもあるんですけれども、現物を残しておけば、津波を知らない世代の方たちに、これを一目見ただけで、津波の怖さとか、津波の到達地点とかをわかってくれるんじゃないかな。防災に役立つんじゃないかなと思って、残そうと思いました」
(Q.改めて、防災への意識、どのようなこと伝えたいですか)

米沢祐一さん
「地震に限らず、災害に遭遇した際は、どうしても自分だけは大丈夫だとか、こんなものだろうと軽く考えがちですが、決して、そうではなくて、1秒でも早く避難の行動をとる。それが、一番、大切なことなのではないかなと思います」
