
黒船を率いたペリー来航の意外な目的や、豊臣秀吉の人間味あふれる直筆の手紙など、貴重な資料の最新研究で明らかになった歴史の新事実を紹介します。
ペリー来航の真意は? 黒船の裏にあった「捕鯨」計画
茨城県立歴史館で開催していた企画展「史料を集め、伝え、そして編む-東京大学史料編纂所の過去と現在-」偉人たちの直筆の文字から、歴史の意外な一面が見えてきます。
最初に紹介するのは、黒船を率いたペリー。来日の真実とは?こちらはペリー渡来絵図貼交屏風です。アメリカから黒船を率いて現れたペリー一行の様子を、当時の日本人が描き、屏風(びょうぶ)に貼り付けたものです。
山縣創明さん(東京大学史料編纂所)
「すべて当時の人々が描いたものを写生的に描いたものをぺたぺた貼っているので、当時の人々がどこにペリーたち一行に関心を寄せていたのかが分かるんじゃないかなと」
もくもくと煙を噴き上げる黒船や、幕府への贈り物である蒸気機関車の模型などが詳細に描かれています。
山縣さん
「ペリーはなぜ日本に来たかご存知ですか」
住田紗里アナウンサー
「開国を迫りに来たんじゃないんですか?」
山縣さん
「一般的にはそう言われていますが、ただもともとは捕鯨、鯨ですね。鯨を捕らえるための寄港地として開港を迫るというところですね」
住田アナ
「鯨ですか!?」
山縣さん
「こちらはペリーの自筆書簡になります。内容は、小笠原諸島の父島にペリーが日本に来る前に立ち寄って、貯炭場を設けるために父島に土地を購入したと」
文面にあるピール島は小笠原の父島、ポート・ロイドは二見港のことです。父島に住むアメリカ人の移民から土地を購入し、「貴殿より購入した土地について、貴殿を私の代理人として任命する」と書かれています。ペリーの直筆サインがしっかりと入っていますね。
住田アナ
「その目的は?」
山縣さん
「捕鯨」
住田アナ
「実際、日本本土に来る前に父島によって購入していたというところからも、綿密に計画が練られていたんだなってことがすごく伝わってきます」
研究で変わる教科書の内容
続いては、研究で教科書の内容が変わった倭寇図巻の秘密です。倭寇とは13世紀~16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部を荒らし回った日本の海賊です。中国で描かれたとされるこの作品は、20世紀初頭には日本に持ち込まれていました。しかし、長らく制作年代が分からず、16世紀の様子を描いたものと推測されていたのですが、立証できたのはなんと2010年です。
山縣さん
「実は明の旗があります。赤外線撮影をしますと、大明神捷海防天兵と書いてあり、明の立派な強い軍隊ということが書いてあるということが明らかになっています。もっと先の方にいくと『弘治4年』という年号が記されている旗も赤外線撮影で明らかになったんですけども、16世紀の後半の日本の元号が見えてくる」
住田アナ
「この絵について習う時、この時期からこの時期くらいと結構幅があったと思うんですけれども、その幅がどんどん狭まってポイントが狭くなっていくということですよね」
山縣さん
「はい。1550年代描かれた時期が明らかになりますので、かなり制作年代も狭まるということになります」
この企画展の展示物の所蔵元で、このような研究をしているのは東京大学史料編纂所。日本全国に残る古代から明治維新期に至る前近代日本史の史料から、研究者向けの史料集や年表を制作する研究機関です。
秀吉の文書に残る“その時”
そんな史料で、特に注目なのが豊臣秀吉が出した文書です。全国初公開となるこの羽柴秀吉起請文は、織田信長から毛利氏討伐の命を受けて戦っていた秀吉が、毛利方から寝返った武将・上原元将に褒賞を約束する誓約書です。備後一国の支配権の約束、もし織田軍が備後を入手できなかった場合は、備中国内に希望する2万貫の領地を与えると書かれています。
しかし、この約束は果たされませんでした。その理由は?歴史的大事件・本能寺の変とその仇討ち、中国大返し。歴史の狭間を垣間見ることができる重要な史料です。
住田アナ
「これ秀吉が書いたんですか?」
山縣さん
「本文は右筆と言われる家臣が書くのですが、最後の署名と花押は秀吉が書いたと」
秀吉直筆の名と図案化した署名である花押。とても貴重な史料なのですが、実はこの起請文、全く存在を知られていなかった文書です。去年10月に突如ネットオークションに出品され、それを見つけた東大史料編纂所が落札し、今回初公開されました。
山縣さん
「非常に貴重なものでして、天正10年6月3日と年号が書かれていると思うんですが、これ実は本能寺の変の翌日なんです。当然(本能寺の変を)知っていない状態」
住田アナ
「信長が殺されてしまったことを分かっていない秀吉が…」
山縣さん
「右から3行目に『上様に対し奉り御忠節之儀候間』と書いてあるんですね。1字空いているのは闕字(けつじ)と呼ばれる敬意を表す意味なんですが、上様というのがこちら信長のこと。『あなたが信長に対して忠節を尽くしてくれているので』と書かれている。つまり、信長はまだ存命だと考えているということですね」
住田アナ
「後世の人間からすると、この時の秀吉が書いている様子を想像すると、ちょっと切ないですね」
山縣さん
「そうですね。恐らくこの日の夜、もしくは次の日の朝に秀吉は本能寺の変を知るって言われていますので、まさに知る直前に書いている」
このような公的な書状は、右筆という文官が主君に代わって書いていましたが、プライベートでは秀吉自ら筆を取ることもありました。こちらも初公開、豊臣秀吉自筆消息です。聖護院門主・道澄という僧侶に送った手紙で、秀吉が「人たらしと」呼ばれたゆえんが垣間見られます。
住田アナ
「これ秀吉の字なんですか?」
山縣さん
「はい。仮名が混じっています」
住田アナ
「でも、どれが平仮名でどれが漢字か、もうちょっと判別がつかないような。もしかしたらあんまり字お上手じゃなかったんですかね」
秀吉は手紙の冒頭に…。
かへすがへす、此文ミへ申ましく候、よくよくたんこう候て、御よミ可然候、
と書いています。意味は?
山縣さん
「自分はあんまり字が上手じゃないから、周りの者と相談して読んでみなさいと」
住田アナ
「これは、何が書いてあるんですか」
山縣さん
「秀吉の元を訪ねてきたお坊さんに対して、その時秀吉は忙しくて十分な対応ができなかった。それを非常に残念がって、あの時は残念でしたっていう内容と、この時は薫物というお香に使うものをお土産に持ってくるんですが、それがとても良かった。ちゃっかりしているのが、あれとっても良かったからまたちょうだいねと。秀吉の人間味がよく出てくる。面白い資料」
住田アナ
「本当にそうですよね。それを書いている秀吉の表情とかもこれを見ていると想像ができますね」
プライベートの手紙では、終わりに自らのことを示す「殿下」の文字が。緊迫した時代に記された起請文の花押と並べてみると、天下を統一してリラックスしている雰囲気が感じられますね。
こちらは、国宝・豊臣秀吉掟書 刀狩令です。日本の社会構造と治安維持に大きな影響を与えた重要な政策が刀狩令です。
住田アナ
「実際に本当に秀吉が直々に命令していたということが、これ見るとより実感できますよね」
山縣さん
「そうですね。これは島津家文書と言われる国宝の中の一つですが、島津家に限らず、他の諸大名にもこちらは出されていますので、いろんな所に残っています」
刀狩令には、農民が持っている刀や脇差、鉄砲、槍を取り上げること、そして取り上げた武具は方広寺の大仏の建立にあてて有効に活用することが書かれています。
(2026年3月10日放送分より)
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