
茨城県立歴史館で開催していた企画展「史料を集め、伝え、そして編む-東京大学史料編纂所の過去と現在-」。前回、豊臣秀吉が残した貴重な直筆の書状などを中心に紹介しましたが、まだまだ歴史上の有名な人物が残した書状が展示されていました。
初公開の信長直筆
まずは、初公開、織田信長の直筆書状。せっかちな信長の性格もうかがい知ることができます。
山縣創明さん(首席研究員)
「こちらは、織田信長の直筆書状になります。かなりこれは貴重でして、今確実に信長の直筆だと確認ができているものがこれを含めて二例しか確認できていない…」
信長がこの書状を送った相手は、現在の大阪北部から兵庫にまたがる摂津国を治めていた重臣・荒木村重です。村重は天正6年、突如信長に反旗を翻した猛将です。これは村重が謀反を起こすまさにその年に、怪しいうわさを聞きつけた信長が書いた怒りの書状です。
信長
「一刻も早くこちらへ釈明に来なさい。そちらの状況は言語道断で、天下に対してあまりに面目ない失態だ」
住田紗里アナウンサー
「信長の怒っている様子とか、圧がそれを聞いただけで、かなり全面に出てきますね。確認ですよね。裏切るなんてことないだろうな…っていう」
山縣さん
「まあ、結果的に裏切るんですけどね」
さらに信長といえば、せっかちな性格といわれることが多いですが、それもこの手紙から垣間見られるといいます。
山縣さん
「こちら面白いのが、信長の性格を表しているのか、ササッて書いて墨が乾ききらないうちにくるくる丸めて書状にする。そうすると書状の裏側に墨がうつってしまう。こういった所に若干見えるかと思うんですが。真ん中に、隣の行の文字が少しうっすらとうつっているのが分かる。これが墨うつりですね」
住田アナ
「信長はせっかちだったんですね」
山縣さん
「一般的にそう言われますけれども、それを補強するような」
住田アナ
「裏付けるような資料ですよね」
戦国武将の“意外な横顔”
続いては、徳川家康が江戸の町づくりを始めたころの貴重な書状です。
山縣さん
「徳川家康覚書というものになります」
住田アナ
「これは家康が書いたものになるんですか?」
山縣さん
「これはおそらく右筆が本文は書いて、最後の署名だけ家康が書いているのだと思いますが」
住田アナ
「あれ家康の署名ですか?」
山縣さん
「はい。家という字は分かるかなと思うのですが」
住田アナ
「芸能人の方のサインみたいな流れ方していますね。これはどのくらいの時代に書かれたものですか?」
山縣さん
「これは大体、豊臣政権なので小田原北条氏が1590年に滅亡しますと、徳川家康が小田原北条氏の後にそっくりそのままお引っ越しをするんですね」
秀吉の命令で、家康の領地はそれまで北条氏がおさめていた関東に変更。その時に家康は江戸城を居城に選び、のちの江戸幕府の中心地となる江戸の町づくりを開始したんです。まさに江戸の基礎づくりをしている時に書かれたと思われるのが、この書状。
山縣さん
「豊臣政権に家康が従っている中、自分の領国を留守にしがちな家康が在京しますので、領国の経営について自分の家臣に詳細な指示を出しているというものになります」
書状には、代官らへの指示や法度の徹底、知行地処理などを行うように命じる内容が書かれていて、京にいながらも自らの領国を気に掛ける家康の気持ちが表れています。
山縣さん
「これ非常に面白いのが、自分の息子で、将来的に二代将軍になる秀忠が中心となってやっていきなさいよということが書かれている」
住田アナ
「自分の後のことも考えていたんだということが表れていますよね」
山縣さん
「この後の江戸幕府、さらにはその後の東京の原型、そういったものを形作る最初のタイミングぐらい。オーバーに言うとそういったところもあり得るのかなと思います」
戦国最強の好敵手
続いては、上杉謙信が武田信玄を注視していたことが分かる貴重な書状です。戦国時代の最強のライバルといえば、“川中島の戦い”で有名なこの2人です。
山縣さん
「こちらは上杉謙信の書状でして」
住田アナ
「残っているんですね。このサインは謙信の直筆ですか?」
山縣さん
「はい。これも謙信という署名と独特な花押ですね。こちらは直筆だと思います」
住田アナ
「花押はカタツムリのような」
山縣さん
「独特な花押。よく謙信と信玄がライバルとかでてきますが、実際に謙信が信玄のことを記しているっていう」
住田アナ
「信玄って読めますね」
山縣さん
「信玄出張延引と書いてあって、信玄が遠征に行くことをどうやら延期したようだぞということを、家臣に情報提供している」
住田アナ
「相当意識していたことがこの一枚からも伝わってきますね」
山縣さん
「実際にこの当時信玄は、今の群馬県への進入を企てていたので、それに対する備えを」
他にも、国境に砦(とりで)を築くよう命じて、もしもの場合の対応策など、武田方を意識した内容が書かれています。
住田アナ
「本当にライバル関係って、後世が付け足しているのかなって思っていたんですけど、本当なんですね」
山縣さん
「実際に領国を接していますし、攻められたらたまったものじゃないので、そういったところは意識している」
武将なのに公家と交流
今川義元の書状には、武将でありながら貴族と交流していた証拠もあります。
山縣さん
「今川義元の書状です」
住田アナ
「本当ですね、ここ義元って読めます。きょう初めて読めたかもしれないです」
山縣さん
「桶狭間で信長に倒されるといったところで、有名な義元なのですが、実は今川家を家督、相続する前は、禅僧だった」
住田アナ
「お坊さんだったということですか?」
山縣さん
「はい。その時に何度も交流のあった三条西実隆という貴族に宛てたものです。在京中は大変お世話になりましたということと、ひょんなことから今回、今川家の家督を継ぐことになりましたということ、さらにはちょっとしたお金をお送りしているというようなことが記されています」
住田アナ
「すごく丁寧な書状だったんですね」
山縣さん
「そうですね。義元は文化的で貴族的と描写されることが多いですが、実際に貴族の三條西実隆と交流があったというところを物語る面白い資料じゃないかなと思います」
さらにこの書状には、貴重な点が。
住田アナ
「今川義元ってこういったものは多く残っているんですか?」
山縣さん
「実はこちらも義元が還俗(げんぞく)して義元と名乗るものとしては最古。一番古いものです」
住田アナ
「じゃあ、桶狭間で亡くなるその前に書かれた、武士になってからの貴重なものってことですよね」
1通ににじむ本音
こちらは、鎌倉幕府を起こした源頼朝のおよそ800年前の書状。平泉の藤原氏を倒すための、頼朝にとって大事な一戦「奥州合戦」。その先鋒(せんぽう)を任された畠山重忠に送った書状で、重忠の軍勢に乱暴狼藉(ろうぜき)を行わないようにせよ、と命じています。
山縣さん
「結構まじめな」
住田アナ
「厳しい文章なんですね」
山縣さん
「袖っていうんですが、一番右端に頼朝が花押を書いている」
住田アナ
「これは、頼朝自身が書いたもの」
実は頼朝の花押は右端に書かれているものが多く、一般的には文章の終わりの署名の下に書く花押を、紙の右端に書くことで、頼朝の高い地位の証にしているんです。頼朝は全国に平和をもたらす最後の戦いに臨むにあたり、配下の兵士に乱暴や狼藉を強く禁止する命令を出したのだと思われます。
(2026年3月18日放送分より)
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