
東京・町田市にある泰巖歴史美術館。ここには織田信長を中心に、豊臣秀吉などさまざまな武将にまつわる貴重な史料が展示されています。華やかな天下人の姿だけではなく、出世の足跡や家臣への気づかい、さらに豊臣家最後の局面まで読み取れる史料が並びます。そこからは、教科書だけでは見えてこない戦国武将たちの素顔も浮かび上がってきます。
秘蔵史料で見える?秀吉の「富」と権力の象徴
まずは、秀吉が実際に着用したとされる、甲冑(かっちゅう)の上に羽織る陣羽織です。
住田紗里アナウンサー
「これは陣羽織ですよね?」
学芸員 中村亮佑さん
「豊臣秀吉が使っていたと伝わっている陣羽織になります」
陣羽織は武将が甲冑の上から羽織り、雨や風、寒さを防ぐことが目的の着物ですが、この秀吉が着用したという陣羽織には、こんな特徴があります。
中村さん
「クジャクの羽があしらわれています」
住田アナ
「秀吉としては、このクジャクの羽はどんな意味を持っていたと考えられているんですか?」
中村さん
「クジャクは(当時の)日本にはいない鳥で、東南・南アジアに生息していた鳥です。南蛮貿易で運ばれてきてますので、結構お金がかかるんですね。高価な素材で作られた陣羽織ということで、秀吉の富や南蛮貿易を扱える権力とか、そういったものをアピールする目的もあったと思います」
こちらは旧加賀藩の原田家に伝来した、秀吉着用の陣羽織です。当時は刀剣などと同じように贈答品にもなっていて、あの徳川家康が秀吉の陣羽織を欲しがったというエピソードもあります。
「陣羽織は戦の時に羽織るものを家康は秀吉からもらうことで、『あなたはもう戦いに出なくてもいい』と伝えたかったという逸話が残っています。これからは戦が起こる世の中じゃないよということをもしかしたら示したかったのかなと」
出世街道を進む秀吉と部下への気遣い
続いては、信長の重臣たちと肩を並べ、出世街道をまっしぐらに進んでいたころの秀吉の書状です。
中村さん
「これは木下秀吉が信長の家臣だった時代に、柴田勝家と丹羽長秀の2人と一緒に、はにう郷という現在の岐阜県にあたる地域と思われるんですけれども、そこの人たちに対して出したものになります」
はにう郷の夫銭について、去年の未納分が支払われていないので、催促の使い30人を派遣します。なおも抵抗するなら、厳しく申しつけるでしょう。
住田アナ
「秀吉がまだ木下時代に、この2人と一緒に名前を書くってすごいことですよね」
中村さん
「そうですね。おそらくこの史料は金ケ崎の戦いの後に出されたものだと思われます」
金ケ崎の戦いとは、織田軍と朝倉義景、浅井長政らが越前で争ったもので、織田方は裏切りに遭い撤退しました。その中で秀吉は一番後ろに付き、後退する部隊の被害を最小限に押さえます。その活躍を信長に認められ、次々と出世していきました。
住田アナ
「柴田勝家たちは百姓から上がってきた秀吉が、自分たちと肩を並べていることにどう思っていたんですかね?」
中村さん
「突然、部下が出世して、自分と同じぐらいの立場になると、あまりよくは思わないかもしれないけれども、秀吉はいろんなところで合戦でも活躍しますし、京都にいた時には政務を行う。岐阜に戻ってきて手紙を出す。いろんなところで信長の配下として活躍していた。柴田勝家や丹羽長秀といった他の重臣たちも秀吉の存在も認めていたのかなというふうに思います」
そんな秀吉の活躍もあり、信長たちは朝倉・浅井を滅ぼし、リベンジを果たしました。
お次は、そんな秀吉が部下を思いやる、あるプレゼントを贈った書状です。
「この手紙は天正2年1574年に書かれたものだと思われております」
糟毛の馬を1匹送ります。
「秀吉が関四郎に馬を送ることを伝えたものになります。この年の初めのころに越前で一向一揆が勃発する。そこで秀吉は信長に命じられて越前の一向一揆に対処していたんです。そんな中、秀吉の配下だった樋口直房が突然逃げ出して、関四郎に対して逃げ出した樋口直房を捕まえなさいという命令を下したんですね」
関四郎の父・盛信が捕らえ、お礼に馬が送られました。さらに、書状には続きがあります。
河内陣中のことについて我々はお世話できませんが気にかけておりますのでご安心ください。
「関四郎はこの手紙のころ、長島の一向一揆と戦うために出陣していた。秀吉はこの手紙の中で、『あなたがこの後、長島で戦うのをちゃんと見守っていますよ!』と書かれている。秀吉からしたら自分の配下が突然裏切った、秀吉の失態を何とか解決してくれた関一族に対してかなり感謝をしていたのかなと思います」
秀吉のもてなしと揺さぶり策
続いては、中国地方を攻める最中、姫路城にいた秀吉の戦略が垣間見える書状です。
住田アナ
「これも羽柴秀吉の書状ですか?」
中村さん
「そうですね」
急な来客がありましたので、(中略)生魚を獲って、夜のうちにこちらへ持ってきてください。
住田アナ
「何で生魚を獲ってくるようになんですか?」
中村さん
「このころ、秀吉は播磨の三木城を攻めている最中だった。三木城を攻めている最中でもお茶会を開いていたり、陣中見舞いに来たお客さんをもてなしたりすために、そういったところで酒のさかなにして、魚が欲しかったんだと思われます」
住田アナ
「戦中っていう感じが全然しないんですけど…」
中村さん
「三木城を取り囲んで包囲して兵糧攻めを行っていた。なので、ずっとドンパチで戦ってるわけではなかった。また、秀吉が戦っている最中にお茶会を開いたり、お客さんをもてなしたりする余裕もあったと思いますし、そういった情報が兵糧攻めしている相手に伝わったら、なんでうちはこんなに食べ物がなくて困っているのに、あいつはお茶会とか開いてるんだと動揺させる目的もあったのかもしれないです」
住田アナ
「秀吉は人の心を突っついてきますね」
続いては、天下人・豊臣秀吉の後継者・秀頼が、最大のライバル徳川家へ抱く対抗心も読み取れる書状です。
中村さん
「これは直江兼続に対して出した黒印状になります」
端午の祝儀として帷子二つ、そのうち単物一つが届きました。遠いところ、大変感謝しております。
「豊臣秀頼は初めて手紙を出した時からずっと黒印・黒い判子を使っていたんですね」
住田アナ
「何でですか?」
中村さん
「織田信長の場合は天下布武と刻まれた印が有名ですけれども、権利とか権限に関するもの、あとは信長の命令や指示に関するものは朱印を使われることが多く、相手からの返信や相手と情報交換をする場合、あとは贈り物の返信の手紙、そういったものに関してはですね、黒い印を使うことが多かった。そういったところで朱印よりも黒印のほうが礼が薄いと考えられているんですね」
家康も同じく、関ケ原の戦いの後、天下人になったころから朱印状より礼の薄い黒印状を多用するようになったと言われています。
「この時、徳川家康が各地の大名に対して、黒印状でいろんな手紙を送るようになったのに対抗して、自分(秀頼)も黒印で手紙を送るようにしていたと言われております」
(2026年4月7日放送分より)
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