
いまや5万店を超える日本のコンビニ業界。その“生みの親”として知られる、セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文元会長が亡くなりました。93歳でした。
【画像】“国内のコンビニの生みの親”鈴木敏文元会長(93)死去 反対押し切り“一大産業”に
反対押し切り…アメリカで着目
鈴木元会長はほぼ毎日、商品の試食を欠かさなかったといいます。

セブン-イレブン・ジャパン 鈴木敏文会長(2003年当時)
「おいしいものほど飽きるからね。だから新しいのをどんどん出していかないと。安いものだったら、どこにでもあるんだよ。だけど安いものでは、もうお客さんは振り向かないよね」
常識に捕らわれない発想を持っていました。
セブン-イレブン・ジャパン 鈴木敏文会長(2003年当時)
「具体的な話。君たち。冷やし中華の問題。寒いから売れないだろうと、何でそういうことを…あれだけ言ってきているのにバカなことをやってるかと。要するに全部寒いから売れないと勝手に思ってるわけ」

キャッチフレーズは「あいててよかった」。日本初のコンビニエンスストア『セブン-イレブン』。しかし、当初、周囲は猛反対だったといいます。

セブン-イレブン・ジャパン 鈴木敏文会長(2005年当時)
「私が最初にセブン-イレブンをつくる時に『あんな小さな店が、どうして日本で成り立つか』と散々反対された。誰も賛成してくれなかった」

1963年『イトーヨーカ堂』に入社した鈴木さん。社員の海外セミナーに同行した時、アメリカで目にしたのがセブン-イレブンでした。帰国後に調べてみると、コンビニエンスストアと呼ばれ、全米で4000店を展開する超優良企業だと知ります。反対の声を押し切り、1号店が産声を上げたのは1974年5月、東京・豊洲。おととしで開業50年を迎えました。

1号店オーナー 山本憲司さん
「元は酒屋ですからね。お客様が、このお店はどういうお店なんだろうと、そういう気持ちが非常にあったと思います」

当時の写真では、店内はオレンジを基調とし、制服も全く違うデザインです。
“画期的”続々…時代とともに変化

そして、驚くべき画期的な商品が店頭に並びました。それは『おにぎり』です。当時“買って食べるもの”ではありませんでしたが、家庭のおにぎりは直巻で海苔がしっとりしたもの。そこに登場したのが、フィルムを使った自分で海苔を巻くタイプ。そのため、パリパリとした食感が話題となり、大ヒットしました。
さらに、具も進化。人気の『ツナマヨ』も、セブン-イレブンが最初に商品化しました。

セブン-イレブン・ジャパン 鈴木敏文会長(2005年当時)
「世の中にないものを作ればいい。それが今のセブン-イレブンの基本になっている」

世の中にないものを作る。手軽な家庭の味『おでん』もコンビニで初めてファストフード化しました。1979年、おでんウォーマーを開発し、レジカウンターでの販売を始めました。
時代と共に変化し続けるコンビニ。今や当たり前となった24時間営業を始めたのは1975年。日本人のライフスタイルが変わり、早朝や深夜に働く人が増えたためです。福島県の店舗を皮切りに全国の店舗に広げていきました。
全国2万店超…一大産業に

鈴木さんの座右の銘は「変化対応」。その精神は商品開発以外にも生きています。1982年、商品管理のPOSシステムを導入。1987年には東京電力の収納代行を始め、コンビニのレジで24時間、公共料金などを支払えるようになりました。
銀行業にも進出し、2001年、現在のセブン銀行を設立。セブン-イレブンは、コンビニを“小規模な小売店”から“インフラ拠点”へと役割を変えました。

2019年、沖縄に進出し、これで全国の都道府県に出店を果たしました。1974年は15店舗でしたが、現在、全国に2万1743店舗を数えます(4月末現在)。成長し続けるコンビニ業界の売上は去年12兆円を超え、スーパー業界と肩を並べるほどです。

セブン-イレブン・ジャパン 鈴木敏文会長(2003年当時)
「多くのことについて、常識で『これはやった方が良い』ことは大体失敗する。創業以来、絶対にモノマネはするなということを、セブン-イレブンの精神として養ってきたつもりです。モノマネというのは絶対に本物以上にはなれない」
2016年、『セブン-イレブン・ジャパン』の社長人事案を否決されたことで、責任を取って辞任し、経営の一線からは身を引いていた鈴木さん。今月18日、心不全のため、93歳で亡くなりました。葬儀は近親者のみで執り行うということで、後日、お別れの会などが開かれるということです。
