
世界的デザイナー、森英恵さんの軌跡をたどる展覧会が、六本木・国立新美術館で開かれています。戦後の洋裁ブームから映画衣装、そして世界の舞台へ。華やかな服の奥にあった思いを、展示とともに見ていきます。
洋装店「ひよしや」から始まったキャリア
六本木・国立新美術館で開催中の「生誕100年 森英恵 ヴァイタル・タイプ」。世界的デザイナー森英恵さんの軌跡をたどっていきましょう。
森英恵さん (当時70歳)
「私はどこに行っても日本人なんだということを感性で表現しながらやってきた」
日本のファッションデザイナーのパイオニアとして、世界で活躍した森英恵さん。洋服を作り始めたきっかけは、1950年代の洋裁ブームでした。
戦後、洋服が一般家庭まで広がりましたが、既製服は少なく高価なものでした。そのため、自分で洋服を作ろうと洋裁学校へ通い、服作りを学ぶ女性が急増しました。実は、英恵さんも洋裁学校に通う主婦の1人だったんです。
主任研究員 真住貴子さん
「最初は家族のために作りたい、それがとても素敵なのでお友達から(洋服制作の)依頼が舞い込む。人のために服を作ることが性に合っていて、そんなに(服作りが)好きならお店をやってみたらという夫の理解もあって、新宿に『ひよしや』という小さな洋装店を開き、そこが評判になっていったというのがキャリアの原点になるんですね」
1951年、新宿に洋装店「ひよしや」をオープン。英恵さんの作る服は瞬く間に大人気となり、「ひよしやに行くときれいな色の服がある」「何か新しいものがある」と言われるほどになりました。
学生だったコシノジュンコさん、高田賢三さん、三宅一生さんが英恵さんにデザイン画を見せに来るなど、小さな洋装店は日本のファッションの発信地になっていったんです。
映画衣装で磨いた視点
その評判を聞きつけたのが映画業界でした。1950年代は日本映画の黄金期。1958年には年間の映画館入場者数が11億人を超えるなど、映画は一番の娯楽でした。
英恵さんは60年代はじめまでの数年間で、100本以上の映画の衣装を制作。こちらは1956年公開の「狂った果実」で、主演の石原裕次郎さんが着たアロハシャツです。
真住さん
「このころ、太陽族といわれた若者たちの間でも、映画から最新のファッションを取り入れる動きがあり、森さんの衣装は大変評判になりました」
佐々木若葉アナウンサー
「森さんが映画を通してトレンドを生み出していった?」
真住さん
「そうですね」
佐々木アナ
「今、こういったダブルボタンもすごくはやっていて、私も祖母のジャケットを着て会社に行くなんてこともあるので、いいものはいくら経ってもいつ見てもいいもの。素敵なものなんだなと思います」
真住さん
「それは吉永小百合さんが着られたものですね」
森さん 当時70歳
「そのころは映画が一番の娯楽でしたから、石原裕次郎さんたちを売り出す青春映画というのもできました。立派な監督さんたちから人間を客観的に見ることを教えられたと思うんです」
“女ナポレオン”の時代
後年、英恵さんはこの映画衣装制作を修行時代だと言い、養った視点はオートクチュールでも役に立ったんだそうです。絶え間なく続く映画衣装の制作と洋装店の仕事。寝る間を惜しんで働き続けた英恵さんについた異名は「女ナポレオン」でした。
仕事を持つ女性が「職業婦人」と呼ばれた時代、華やかに活躍する英恵さんは、新しい女性像の先駆けとして一躍時の人になりました。しかし…。
真住さん
「女ナポレオンって呼ばれて2~3時間しか寝られなくて、当然疲れてしまう」
佐々木アナ
「そうですよね」
真住さん
「お仕事をそのまま続けていくことができるかな?と思いつめてしまわれて、それを見た夫が『やめるのはいつでもできるからパリに行ってきたら』と。本場のオートクチュールなどを見て、逆に英気を養って帰ってきた」
パリで多くのデザイナーのショーを見て、英恵さんの目に特別に映ったのがシャネルのショーでした。オートクチュールの世界は男性デザイナーが中心。数少ない女性デザイナー、ココ・シャネルの作品を見て「これは女による、女のための服だ」と思い、シャネルにスーツを仕立ててもらうことにしました。
真住さん
「シャネルのアトリエに森英恵さんが行った時に、ココ・シャネル自身もいたんだそう。接客するのは違うマダムなんですが、ココ・シャネルがあなたの黒髪をとてもステキだってほめてるということを言ってくれて、東洋人のお客さまはあなたが初めてですと」
ココ・シャネルは「日本は年中太陽でいっぱいだから」とオレンジのスーツを英恵さんに勧めましたが、派手すぎるため、スーツはベージュ、ブラウスをオレンジにしてオーダーしました。このスーツは、生涯大切にしていました。
佐々木アナ
「当時の物価から考えると、日本人がシャネルでスーツを仕立ててもらって、ちょっとぜいたくというか、お金はいくらぐらいかかったんですかね?」
真住さん
「正確な金額は分からないんですけれども、1ドルが360円の時代で、オートクチュールの服が何千ドルもするような時代のことですから、パリからご自宅に電報、お金を送ってっていうのを送られて、ご主人が費用を工面してお金が送られて、無事作られた」
“メイド・イン・ジャパン”を世界へ
日本のファッション界で地位を築いた英恵さんは、ついに世界進出し、1965年にニューヨークでショーを開催。黒やモノトーンが流行していた当時、西陣織など日本の伝統的な高級生地を使い、鮮やかな色彩の作品を披露しました。
日本の生地を使うことに、英恵さんの強い思い、そしてこだわりがありました。当時のアメリカはデパート文化。上の階に行くほど並ぶのは高級品。日本製のブラウスは粗悪品として地下で1ドルで売られ、「ワンダラーブラウス」と呼ばれていたんです。
真住さん
「ワンダラーブラウスに衝撃を受けて、日本にはハイクオリティーの絹織物とかがたくさんあるのに、なぜだと思われて。日本の生地を使った作品を発表されて、メイド・イン・ジャパンは粗悪品というイメージを払拭された」
佐々木アナ
「今、私たちが思うメイドインジャパンは質の高いものだというのも、森英恵さんが作り上げてくださったのかもしれないですね」
森さん 当時70歳
「1965年に初めてニューヨークで自分のコレクションを出したのですが、どのように自分のアイデンティティーを形成したらいいのかを勉強しましたが、結局たどり着いたのは『私は日本人だ』。『日本の文化というのを、私は背負った日本の女だ』ということをテーマ。西洋人との違いをいかに磨き出して同じ言葉で表現するかとやってきた」
蝶が彩ったオートクチュール
そんな英恵さんの象徴ともいうべきアイコンが蝶(ちょう)です。色鮮やかに、今にも羽ばたきそうな美しい蝶がドレスを彩ります。
1977年、アジア人で初めてパリ・オートクチュール正会員となり、世界的なファッション雑誌「VOGUE」での特集。1993年、当時の皇太子殿下ご成婚に際し、雅子さまのローブ・デコルテのデザインや、バルセロナオリンピック日本代表選手団のユニホームのデザインなど、国内外で活躍してきました。
英恵さんは2004年、オートクチュールを引退。ショーで飾ったのが、このウェディングドレスでした。
佐々木アナ
「ウェディングドレス素敵ですね」
真住さん
「森英恵先生はお嫁さんっていうふうに最後おっしゃっているんですけども、オートクチュールやファッションショーのラストをウェディングドレスで飾るっていうのが多いんですが、こちらのウェディングドレスはお孫さんの森泉さんが着られたウェディングドレスなんです」
六本木・国立新美術館で開催中 「生誕100年 森英恵 ヴァイタル・タイプ」(7月6日まで)
(2026年5月15日放送分より)
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