
沖縄本島から約40キロ。235人が暮らす小さな島・阿嘉島で、81年前に撮影された1枚の写真があります。
戦争のさなか、砂浜にひざまずく兵士たち。日本人もアメリカ人も、武器を持っていません。
【画像】兵士が武器置く写真の謎 選んだのは軍事力より対話…知られざる“阿嘉島の休戦交渉”

互いに命を奪いあっていた兵士たちが武器を置き、何をしていたのか。
その謎を追い続けている阪井宏さん(70)。
きっかけは、飛行機の中で偶然出会った阿嘉島出身者との何気ない会話でした。

北星学園大学元教授 阪井宏さん
「阿嘉島は、旧日本軍とアメリカ軍が、戦争の途中で話し合いをして、ほとんど休戦状態になったと教えてくれた」

阪井さんにとって、初めて聞く話でした。以来、当時を知る人や遺族を訪ね、20年以上、追い続けています。
調査を続けるなか、この写真に写るアメリカ兵たちを率いたジョージ・J.クラーク中佐の残した正式な軍への報告書を見つけ出します。そこには、この写真に至るまでの出来事が、詳細に記されていました。

クラーク中佐の報告書
「阿嘉島は険しい岩だらけの島で、1945年3月下旬、この島を制圧した」
1945年3月26日、阿嘉島に上陸したアメリカ軍。
ここを前線基地に、沖縄本島への上陸作戦が始まります。激しい地上戦に、多くの民間人も巻き込まれました。「アメリカ軍の捕虜になるくらいなら死を選べ」と教え込まれていた人もいました。

阿嘉島には、いまも当時の戦闘の痕跡が残されています。

阿嘉島 国吉重信区長(78)
「これが銃の当たった痕。
北星学園大学元教授 阪井宏さん
「3月26日ですかね」
阿嘉島 国吉重信区長(78)
「その時です。部落の人は、ここを通って、山の方に逃げて行った。ここは、山に抜ける道なんです」
アメリカ軍は、島を制圧したとしていましたが、旧日本軍約200人と島民たちは、山中に逃げ込み、抵抗を続けていました。

沖縄戦末期の6月、阿嘉島に再び向かったアメリカ軍。目指したのは、多くの日本兵や島民たちが潜む島全体を、犠牲を出さずに降伏させることでした。
それは、アメリカ軍にとっても、命がけの作戦でした。

マイケル・ホプキンスさん(76)の父親・ジョセフさんは、島に上陸したアメリカ軍の一員でした。

マイケル・ホプキンスさん
「ある上官が父の元にきて『正気か』と言ったそうです。『交渉から帰ってきた兵はいない』と。父は、自ら志願したとはいえ、その話を聞いても引かなかった。小さな平和のかけらを見つけようと、島に向かったのです」
阿嘉島に向かえば、生きて帰れないかもしれない。それでもアメリカ軍は、軍事力ではなく対話を選びます。

その舞台となった“ウタハの浜”。
降伏を呼びかけたのは、捕虜になっていた旧日本軍の少尉です。
阪井さんは、調査を続けるなかで「呼びかけをしていたのは、染谷少尉だと」、当時の島民から証言を得ていました。
染谷という名前は、クラーク中佐の報告書にも残されていました。

クラーク中佐の報告書
「染谷まさゆきは、守備隊の前の将校で、日本軍の中では、まれにみる進歩的な考え方の持ち主の1人だった」
北星学園大学元教授 阪井宏さん
「彼がこの戦いの中で命を落とすことが、正しい選択かどうか、切々と訴えた。船の上から呼びかけ、浜に上がり、山の中腹にスピーカーを設置して呼びかけた」

呼びかけを続けたアメリカ軍。その間、軍事力は使いませんでした。それでも山中の日本兵たちは、沈黙を続けます。
呼びかけを始めてから6日。

クラーク中佐の報告書
「我々、交渉部隊は、作戦が失敗したと判断した。染谷少尉は、最後の訴えで感情を込めた。『きょうは作戦の最後の日です、阿嘉島の皆さん、永遠にさようなら』」
その言葉を受け、阿嘉島守備隊の隊長が動きました。
北星学園大学元教授 阪井宏さん
「守備隊長は、島民に向けて『これからは自由行動だ』と呼びかけた。『米軍側に投降しようとしても、とがめたりはしない』と」

6月23日、沖縄本島で組織的戦闘が終わったあとも、阿嘉島では緊張状態が続いていました。
その3日後。
クラーク中佐の報告書
「6月26日の朝、敬礼が交わされ、私は銃を部下に手渡し、隊長は、長い侍の刀を日本兵に渡し、会談は始まった」
報告書には、数日前まで敵だった兵士たちと、昼食をともにしたことも記されています。

クラーク中佐の報告書
「50人いると聞き少し驚いたが、会談に臨んだ将校には、ロースト・ポークとスイートポテト、残りの兵士たちには、缶詰めの食料を十分なだけ用意した」
親交を深めた両軍。
しかし、翌日、守備隊長から送られてきた回答は「天皇の命令がない限り、降伏はできない」というものでした。
交渉は決裂。その一方で、守備隊長は、こんな言葉も伝えていました。

クラーク中佐の報告書
「浜辺や海で泳いでいたりしても、軍事行動が伴わなければ危険はない」
島では銃声が止み、事実上の休戦状態に。敵同士だった兵士たちは、互いの旗を交換しました。

その旗は、いま、座間味村にひっそりと保存されています。
戦場の浜辺で続けられた休戦交渉。クラーク中佐は、最後にある提案をしました。
クラーク中佐の報告書
「最後に私は、世界の相互理解と平和のために、それぞれの神に祈らないかと尋ねた。日本側もすぐに同意をして、全員が砂の上でひざまずき、祈りを捧げた」

81年前、阿嘉島で撮影された1枚。
そこにあったのは、敵としてではなく、人として向き合う兵士たちの姿です。
マイケル・ホプキンスさん
「日本人もアメリカ人も1945年の、あの島の出来事を誇りに思うべき。ただ“素晴らしいことをした”で終わらせてはならない」

北星学園大学元教授 阪井宏さん
「直接、語りかけ、相手の話を聞くことが、いかに重要かということを、この史実で思い知らされた」
