
レバノンで「KOZO」と親しまれた日本人が7月23日に死亡した。日本赤軍のメンバーとして1972年にイスラエルの空港で無差別テロを起こした岡本公三容疑者だ。殺人などの疑いで国際手配され、一度も祖国の地を踏むことなく政治亡命先のレバノンで78歳の生涯を閉じた。晩年は健康上の問題を抱え、取材を申し込んでも応じることはなかった。現地関係者らへの取材で、最後まで抱き続けた思いや亡命生活の様子が垣間見えた。
(カイロ支局 松本拓也)
【画像】「KOZO」と呼ばれて…無差別テロに関与しレバノン亡命 岡本公三容疑者の最後
難民キャンプで生活し日課の散歩で若者にパレスチナを説く
「彼との別れは自分の父親の時と同じくらい辛いものだった」
レバノンの首都ベイルートで執り行われた岡本容疑者の葬儀で、フアード・ダヘル氏が思い出を振り返った。亡命後の生活を支援してきた過激派組織PFLP=パレスチナ解放人民戦線の幹部で、20年以上にわたり、岡本容疑者の世話役を務めてきた人物だ。
「彼はパレスチナ難民キャンプで暮らし、質素な生活を心がけていた。散歩をするのが日課で、特に若い世代と会話をするのを楽しみにしていた。犠牲を払ってでも、パレスチナを誇りに思うようよく説いていたよ」
日本にいる仲間たちや自身の青春時代について楽しそうに話していた一方で、話題が「あの事件」におよぶと、感情を露わにする場面もあったという。
無差別テロ容疑者としての顔 抱き続けた「仲間と共に死ねなかった後悔」
熊本県の生まれで、鹿児島大学に在学中に当時の学生運動に参加し、その後、日本赤軍のメンバーになった岡本容疑者。
日本赤軍は、前身である「赤軍派」が起こした1970年の「日航機よど号ハイジャック事件」や1975年にマレーシアで米大使館を襲撃した「クアラルンプール事件」など世界各地で事件を起こした過激派のグループだ。
数ある事件の中で、岡本容疑者が実行犯として関与したのが、1972年イスラエル・テルアビブにある空港での銃撃事件だった。警視庁の捜査関係者によれば、この事件で24人が死亡し76人がけがをした。死者の大半はプエルトリコからの聖地巡礼者が占めた。仲間2人もその場で死亡した。
岡本容疑者はイスラエル当局に逮捕され、裁判で終身刑を言い渡されたが、1985年に捕虜交換の一環で釈放された。その後は隣国レバノンで亡命生活を送ってきた。
長年付き添ったフアード氏は本人が事件を起こしたことについては後悔を口にしなかったとした一方で、「あの時、仲間と共に死ねなかったこと。それが最大の後悔だったと話していた」と明かした。
最後の瞬間まで「パレスチナと…」アラブ世界で英雄視も肺の合併症で死亡
自身が起こした事件から50年にあたる2022年。死亡した仲間の墓に花を手向けた岡本容疑者。これ以降、公の場には姿を現していない。PFLPを通じて、何度も取材を申し込んだが、晩年は健康上の問題を理由に叶わなかった。
感染症を繰り返し患い、定期的に病院で治療も受けていたという。
最後は集中治療室で15日間過ごし、仲間のもとに旅立った。肺の合併症が原因だった。
「最後の瞬間まで『パレスチナ』と言い続けていた。彼はパレスチナの大義を信じていた」
とフアード氏は語る。さらに、イスラエルを敵視するパレスチナ人やレバノン人らにとって、「KOZOは英雄的な存在だった」とも明かす。
その言葉を裏付けるように、葬儀には多くの市民が詰めかけ最後の別れを惜しんだ。中には岡本容疑者が対話を好んだという若い世代の姿もあった。
殺人の疑いで国際手配され、亡命後は最後まで日本に戻ることがなかった。別のPFLP幹部は「彼は日本に戻ることを考えていなかった」と語る。
「パレスチナ難民キャンプで我々と共に暮らし、多くの歳月をイスラエルへの抵抗に費やしたからだ」
一方で、岡本容疑者の死亡を受けて、イスラエルメディアは犠牲者遺族の声を伝えた。事件で大学教授だった父親を亡くした男性は、「彼はカルト集団の一員で、誰を殺したかさえわかっていなかった」と訴えた。
「復讐心を刺激されたというよりも、今は安堵している」と漏らしたという。別のアメリカ人遺族は「彼は一度も許しを請うことも、反省の態度も示さなかった」と語った。そのうえで、「母は26年しか生きることが出来なかったのに、彼は78年間も充実した人生を送った」と憤った。
「無差別テロの容疑者」と「アラブ世界の英雄」。
2つの顔を持った岡本容疑者の遺体は、戦闘で犠牲となったパレスチナ人の墓地に埋葬された。支援者らに依頼されても、遺書は残さなかったそうだ。
日本赤軍が起こした事件の捜査を続けている警視庁は、死亡の事実関係を確認中としていて、今後、容疑者死亡のまま書類送検することも検討するとみられる。
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