
広島に原爆が投下されてから、6日で81年になります。平和公園では式典が行われ、午前8時15分に合わせて黙祷が捧げられました。今回の式典には空爆で息子が犠牲になったイラン人の夫婦が参列しています。広島で伝えたいことは何なのか、聞きました。
原爆投下から81年
8月6日午前8時15分。日本人にとって忘れられない日。広島に原子爆弾が投下されてから81年が経ちました。
多くの人が祈りをささげる中、参列者の中にはイラン人夫妻の姿がありました。
「(Q.今の心境は?)平和記念式典のことは前から知っていたが、参列することになるとは思っていなかった。広島やミナブのような爆撃を繰り返さないために、私たちがここに来て、また皆と手を結んで語り継いでいくべきだと思う」
今年2月、イランの小学校が空爆されました。2人は、空爆で命を落とした少年の両親です。
「原爆ドームを見ていると、マカンの学校のことを思い出します。アメリカに攻撃され7歳の息子を失い、残されたのは靴だけ」
空爆で愛息失った両親
平和記念式典の3日前。この日、広島駅に到着したのはイラン人の一行です。
式典に参列 ナシリ夫妻
「私たちの声を広島の人々、そして世界中に届けるため、ここへ来ました」
アメリカと緊張状態が続くイランからやってきたナシリ夫妻。自分たちの街で起きていることを世界に届けたいと、日本を訪れました。
今年2月、イラン南部ミナブの小学校を襲った空爆。当時この空爆で児童や教師ら168人が命を落としたといわれました。
先月まで行われたワールドカップではイラン代表が「ミナブ168」と呼ばれるなど、国内では追悼の象徴となっています。
そのミナブで犠牲になった一人が夫妻の7歳の息子・マカン君です。
マカン君
「こんにちは、ぼくはマカン・ナシリです」
マカン君の母 ラヒネジャドさん
「マカンは、ヤンチャで明るく、元気な子でした。末っ子で、わが家の幸せそのもの。『将来僕は警察官になりたいんだ』と言っていました」
将来の夢を語っていたマカン君。しかし…。
ラヒネジャドさん
「あの出来事が起きてから、私たちの生活は一変してしまいました。家の中でマカンの笑い声を聞くことはもう二度とありません」
ミサイルが幼い命を奪い、そして家族の生活を一変させました。
マカン君の父 ナシリさん
「私たちは作り物ではなく、真実の痛みを抱えた当事者です。だからこそここへ訪れ、皆さんと悲しみを分かち合おうとしているのです」
息子を亡くし、悲しみを抱えた中、ナシリ夫妻は広島で何を想うのでしょうか。
広島で重ねる息子の面影
ナシリさん
「ここが爆心地ですか?」
原爆死没者の慰霊と世界平和の願いが込められた平和公園。夫妻が最初に足を止めたのは原爆慰霊碑の前でした。ここには原爆によって命を落とした、およそ35万人もの名前が納められています。
81年前、広島の地で一瞬にして奪われた当たり前の日常。2人は最愛の息子・マカン君の面影を重ねていました。
ラヒネジャドさん
「ここに来て、マカンが眠る墓地のことを思い出しました。あの場所がとても恋しくなりました」
たった7歳の幼い我が子を失った夫婦。そんな2人が、引き寄せられるように向かった場所がありました。
ナシリさん
「ここが禎子の像ですか?」
2歳で被爆し、12歳で白血病を患い亡くなった佐々木禎子さん。その姿がモデルとなった“原爆の子の像”です。
「生きたい」という願いを込め、病床でおよそ1600羽の折り鶴を折り続けた少女。将来は「体育の先生になりたい」という夢を持つごく普通の女の子でした。
ナシリさん
「被爆してから何年後に亡くなったのですか?」
通訳
「2歳の時に被爆して、10年後、12歳で亡くなったのです」
マカン君と同じく、若くして戦争の犠牲となった少女。その像を前に祈りの鐘を響かせました。
禎子さんが折り続けた折り鶴は平和のシンボルとなり、今でも世界中からたくさんの折り鶴が捧げられています。
ラヒネジャドさん
「本当にとてもきれいね。明るい色が使われていて」
爆心地からおよそ160メートルの場所にある原爆ドームでは…。
通訳
「ここの上空600メートルで原爆が爆発しました」
ナシリさん
「完全に焼けてしまったのですね」
通訳
「残ったのはこれだけです」
原爆の爆風と熱線を受け、建物内にいたおよそ30人全員が即死だったとされています。
当時のまま建ち続ける原爆ドームを見て思い出すのは、あの日のことでした。
ナシリさん
「原爆ドームを見たら、小学校の校舎が崩れ落ちているのを目にした時の感情が蘇ってきました」
遺体見つからず…
2026年2月28日。当たり前だった家族の日常を一瞬にして奪い去ったミナブでの爆撃。
ナシリ夫妻は癒えることのないその胸中を明かしてくれました。
ラヒネジャドさん
「寒い日は、いつも彼の服や靴下を温めてから着せていました。でも、その日は温めることができませんでした。マカンから『きょう靴下冷たいよ、明日からはちゃんと温めてね』って言われて、『明日はそうするね』と約束していました」
しかし、約束の明日が訪れることはありませんでした。
ラヒネジャドさん
「家の庭にいた時に、爆発音が聞こえたのです。私たちはとても心配になって、大急ぎで学校に向かいました。校舎が崩壊して地面に崩れ落ちていました。そこで見えた唯一のものは、がれきの下から引きあげられてくる遺体だけでした。遺体が入った袋を一つひとつ開けてうちのマカンがいないか確認しました。しかし、そこでマカンを見つけることはできませんでした」
マカン君を見つけたい一心で学校内や安置所を探し回った2人。マカン君のわずかな手がかりにたどり着いたのは爆撃から38日後のことでした。
ナシリさん
「義理の兄が『これはマカンの靴か確認して』と言いました。妻が確認し、マカンの靴だと判明しました」
ようやく見つかったのは左足の靴。ただ、それだけでした。
ラヒネジャドさん
「マカン自身を見つけたかった。でも、靴だけが見つかって、彼が亡くなり、もう私たちのところにはいないのだと受け入れざるを得なくなりました」
小さな片方の靴は、マカン君が存在したことを示すたった一つの証となりました。
ナシリさん
「アメリカに攻撃され、7歳の息子を失い、残されたのはこの靴だけなのだと世界に示すために、どこへ行くにもこれを持ち歩いているのです」
地元住民との交流
その後、訪れた原爆資料館では改めて広島の歴史に触れたナシリ夫妻。
ナシリさん
「ミナブの小学校は広島のような博物館になります。 ここと同じように周辺をガラス張りにして、生徒の形見をそこに展示する予定です」
広島が世界へ発信し続けるように、イランでも平和の尊さを伝え続けたいといいます。さらに…。
この日、市内で開かれたのは、地元住民との交流会。参加したのは、被爆2世や地元の学生などです。
被爆2世 津谷隆史さん
「皆様が広島に来る意味っていうのに非常に重要なことがあると思います。なぜかというと、広島は原爆にあって、ここまで立ち直った。それを皆様に見ていただきたい」
戦争を知らない地元高校生もナシリ夫妻を歓迎します。
地元の高校3年生 大前凛和さん(17)
「僕たちができることは限られていますが、僕たちなりのおもてなしを皆さんにしようと考えています。よろしくお願いします」
日本の若者に託す思い
千羽鶴を一緒に折るなど、交流を深めたナシリ夫妻。中でも、ナシリさんの妻の心を大きく揺さぶったのは、日本の童謡でした。
演奏者 上垣内寿光さん
「『赤とんぼ』という曲を演奏したいと思います」
ラヒネジャドさん
「マカンもこういう音楽とか楽器が大好きだったので、マカンのことを思い出して、寂しくなりました」
その音色は、音楽が大好きだった息子・マカン君を思い起こさせました。
ナシリさん
「原爆ドームを見た後、悲しくなりました。あなたたちが経験したことを私たちも経験しました。もう話せなくなるほど落ち込みました」
ラヒネジャドさん
「非常に元気で楽しい息子でした。でも、マカンがいなくなってからは家が静かになりました。つらくて一日に何度もマカンのお墓に行きます」
我が子を失った、消えない痛み。想いを聞いた広島の若者たちはどう感じたのでしょうか?
地元の高校3年生 長坂賢吾さん(17)
「被害を受けるのは一般市民だから。武力行使じゃなくて、ちゃんと話し合いをしてからお互いの良いあんばいのところを見つける必要があると感じました」
被害者の心に寄り添う日本の若者の言葉は、マカン君の父親に確かに届いていました。
ナシリさん
「私のマカンも、こういう未来があったんじゃないか。そういう姿を見たかったです。でもできなかった。その代わり、きょう私たちが会った若者たちは、これから社会に貢献する姿を見せてくれるでしょう」
(2026年8月6日放送分より)
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