秀吉はなぜ3度改名? 「豊臣」姓と「羽柴」名字 秀吉まねて「松平」“配った”家康

秀吉はなぜ3度改名? 「豊臣」姓と「羽柴」名字 秀吉まねて「松平」“配った”家康
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 天下人、秀吉と家康。2人が歴史に刻んだのは戦だけではありません。名字のルーツと改名に隠された、天下を取った秘密に迫ります。

【画像】敗走中に与えた珍しい名字とは

秀吉の「木下」 上司の名字だった?

秀吉が最初に使った「木下」
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 大河ドラマで注目される豊臣秀吉。名字研究家の森岡浩さんによりますと、秀吉が最初に使った「木下」という名字の由来には大きく3つの説があり、現在は織田信長に仕えた後、直属の上司からもらって名乗ったという説が有力です。

森岡さん
「(秀吉は)一介の農民から出世したって言っていますよね。秀吉の姉とか妹は武家と結婚しています。一介の農民ではなかったんじゃないかって、言われていまして。もともと父も木下だったと言われています」

 ただ、秀吉の父親とされる弥右衛門に関する史料はほとんどなく、父親の名字が木下だったかどうかは定かではありません。

秀吉の妻・ねね
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 2つ目は、秀吉が妻・ねねの実家の名字を名乗ったという説です。しかし、ねねは杉原家の出身で、秀吉と結婚した時には浅野家の養女でした。ねねの兄には木下家定という人物がいて、その子孫は江戸時代も木下家として大名を務めました。

 このため、ねねの実家が木下家だったと考えられていましたが、現在では家定が秀吉から木下の名字をもらったことが分かっているといいます。

 そうなると現在有力なのが、秀吉が自ら木下と名乗ったという3つ目の説です。

森岡さん
「いつ名乗ったというのには、いくつか説があって。信長に仕える前は静岡県で松下家に仕えていた。じゃあ殿様が松下だから自分は木下と名乗ったという説があります。でも最近有力になっているのが、織田信長に仕えてから木下って名乗ったのではないか。その木下はどこから来ているかというと、直属の上司が『木下』だったので、その名字をもらったんじゃないかという説が今かなり有力」

天下人を目指した改名

織田家の重臣2人
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 秀吉は織田家で出世すると、木下から羽柴に名字を変えました。「羽」は丹羽長秀、「柴」は柴田勝家から一字ずつ取ったといわれています。この改名を提案したのは信長で、織田家の重臣2人の名字を合わせることで、秀吉も重臣であるという意味があったとされています。

 ちなみに弟の秀長も羽柴を名乗りましたが、秀吉より2年ほど後だったといいます。改名には信長の許しが必要だったため、時期がずれたと考えられています。

森岡さん
「その後、豊臣になりますよね。実は、“名字”を変えたのではなくて、豊臣は“姓”なんですね」

名字と姓
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 現在では、名字と姓は同じものとなっていますが、以前は自分で名乗り変えることもできるのが名字で、天皇から与えられるものが姓です。「源平藤橘」と言われるのが代表的です。

森岡さん
「羽柴という名字に対して、改めて別の『豊臣』という姓を天皇からいただいた形になってるはずです」

斎藤ちはるアナウンサー
「(名字は)羽柴のままってことですか?」

森岡さん
「あまり羽柴を名乗った形跡は見えないんですけれども、それは本人が豊臣と名乗っていただけで、実際は姓が豊臣、名字が羽柴というのをずっと続けていたんだろうと」

猶子=相続権のない養子
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 秀吉が姓を必要とした背景には、関白という朝廷の役職があります。関白になるためには藤原姓が必要だったため、秀吉は藤原氏の嫡流(ちゃくりゅう)である近衛前久の「猶子」になりました。猶子は相続権のない養子です。

 しかし、藤原姓のままでは近衛前久が一族のトップです。そこで秀吉は天皇に願い出て、新たに豊臣という姓を作ってもらったといいます。

森岡さん
「豊臣は『源平藤橘』と並んで同格」

 源氏、平氏、藤原氏、橘氏に並ぶ姓とされ、豊臣姓では秀吉がトップとなりました。秀吉は羽柴の名字を前田利家や毛利輝元など多くの家臣に与えました。名字を与えることには一族や親戚として扱い、強く信頼しているという意味がありました。

森岡さん
「前田利家にも羽柴という姓を与えます」

前田利家にも羽柴姓
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 前田利家は自らの国では前田利家でしたが、豊臣政権内では「羽柴加賀中納言」と名乗りました。他にも毛利輝元など数々の武将に羽柴の名字を与えます。ところが…。

森岡さん
「当時はたくさん(羽柴が)いたはずなんですけど、実は今そんなにないですよね。秀吉政権の時代は羽柴さんいたんですけれども、滅ぶじゃないですか…。江戸時代になると豊臣家っていうのは幕府に対抗した家になります。そうなると、羽柴をもらって江戸時代まで大名とか旗本で続いた家は、皆さん羽柴という名字を捨てます。元の名字に戻すんですね」

 ただ、豊臣政権が滅びて江戸時代になると、羽柴を与えられた大名や旗本の多くは元の名字に戻しました。

家康「源氏の子孫」名乗り

森岡さん
「江戸時代になると、実は(徳川)家康が同じようなことをやります」

斎藤アナ
「豊臣秀吉は関白。徳川家康は征夷大将軍。同じ天下人なのに…」

「公家のトップ」
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森岡さん
「関白というのは公家の世界の話なんですね。公家のトップが関白なので、秀吉は公家社会の中に入って日本を統一しようとしているんですね。それに対して家康は武士として全国を統一しようとしています。なので、武士のトップは征夷大将軍なので、家康は将軍を目指します」

 秀吉は農家の出身で、公家にまで登り詰めたいという野心から、家康は武家でそのトップに立つという思いがあったのではと考えられています。

森岡さん
「征夷大将軍は、源姓でないとなれないんです。実は家康の家も、元々は三河の方の小さな武士から始まってますので、姓がはっきりしないんです。ですけど、途中から源を名乗るようになります」

斎藤アナ
「養子になった…ということですか?」

「途中から源を名乗る」家康
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森岡さん
「無理やり系図を作ります。自分は源氏の子孫なんだから将軍になります、と」

 家康は清和源氏の流れを汲む一族・得川義季氏の子孫を名乗り、源姓になったと言われています。そんな家康も、秀吉と同じく有力な家臣たちに名字を与えますが…。

森岡さん
「徳川家っていうのは独特で、本家だけが徳川で、分家は松平となる決まりがあるんです。有名なところで言いますと、仙台藩主の伊達政宗も」

松平の名字 有力大名にも与える
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 徳川家では、本家だけが徳川を名乗り、分家は松平を名乗る決まりがありました。家康はこの松平の名字を有力大名にも与え、伊達政宗も「松平陸奥守」という名をもらいました。

江戸の切絵図
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 江戸の切絵図では、仙台藩の屋敷にも松平陸奥守と記されています。さらによく見てみると、周りには松平だらけ。これほど徳川家は、たくさんの大名たちに松平を与えていました。

敗走中に与えた珍しい名字

おかゆをごちそうになり…
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 実は家康は一般の人にも名字を与えたといいます。三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れて逃げる途中、農家でおかゆをごちそうになり、後に「小粥(こがゆ/おがい)」という名字を与えたとされています。

逃走中に帯からお金を出して貸した人物に…
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 さらに、逃走中に帯からお金を出して貸した人物には「帯金(おびかね/おびがね)」という名字を与えたといいます。

蓑(みの)笠之助
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 さらに本能寺の変の際には、堺から伊賀を越えて逃れる家康が正体を知られないよう、家臣が変装用の蓑(みの)と笠を調達しました。家康は、この家臣に名字と名前をセットで与えたといいます。授けた名は「蓑笠之助」でした。

(2026年7月28日放送分より)

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