
文京区小石川の住宅街にある傳通院は、徳川家康の母・於大(おだい)の方の墓をきっかけに、徳川将軍家ゆかりの寺へと発展しました。境内には、於大の方をはじめ、千姫や孝子の方など、徳川家に関係する人々の墓が数多く残されています。
【画像】真っ暗な洞窟でも勉強ができた?傳通院を開いた僧侶の“額の三日月”伝説
創建当時は小さな草庵
傳通院は、都心の閑静な住宅街にありながら、門や境内のいたるところに徳川家の家紋が見られます。本堂が見えてきたところで、まずは傳通院の歴史を聞きました。
傳通院 寺務長
井村真則さん
「傳通院はおよそ600年の歴史があるお寺で、創建は1415年になります。当時は寿経寺という小さな草庵であったと聞いております」
室町時代の創建当時は、片田舎にある小さな寺院で、場所も現在とは少し違っていたといいます。
それが、なぜ徳川将軍家ゆかりの寺へと変わったのでしょうか。
徳川家ゆかりの寺へ
「そのきっかけとなりましたのが、徳川家康公のお母さまの於大の方が1602年にお亡くなりになりまして、家康公が江戸幕府開府と同時にこの傳通院を築き、そして自ら母親のお墓を建立するということをきっかけに、徳川家の菩提寺となりました」
創建からおよそ200年がたっていましたが、家康は母・於大の方の墓を建てるため、寺を現在の場所に移し、徳川家の菩提寺に定めました。さらに、墓が建てられたことは、寺の名前にも影響を与えました。
「創建当時は寿経寺という名前ではございましたが、於大の方の戒名ですね、『傳通院殿』と申しますが、その傳通院という院号が寿経寺に与えられまして名前が改められたと言っても過言ではないと思います」
於大の方の墓が建立されたことで、寺の名前も傳通院へと改められました。家康の母に対する思いが伝わります。
徳川家ゆかりの女性たち
続いて、於大の方が埋葬されている場所へ向かいました。
於大の方は現在の愛知県で、水野忠政の娘として生まれました。のちに松平家へ嫁ぎますが、織田・今川の戦いのため、離縁を余儀なくされます。その後、家康は人質となり、母と離れ離れになりました。家康がまだ3歳の時に織田家の人質となり、於大の方は実家に帰されることになりました。しかし、於大の方は家康を忘れることはなかったといいます。
「いつも家康公のことを忘れることなく、時には着物を届けさせたり、またお菓子を届けさせたり、常に母親の愛情を絶やさない、慈愛にあふれる方だったと思います。家康公といたしましても、その於大の方の愛情がどれだけありがたかったかということが想像できると思います」
次に訪れたのは、徳川将軍家の人々の墓が集まる場所です。
「こちらが、ひときわ大きなお墓でございますが、千姫のお墓になります」
千姫は、2代将軍・徳川秀忠の長女です。
「政略結婚といたしまして、豊臣秀頼公と結婚するんですが、結婚してまもなく豊臣家は滅ぼされる。大坂夏の陣において、千姫だけはなんとかして救出をして、そして生きながらえるわけですね。そのあと桑名城主のですね、本多忠刻という方と結婚をされます。その後、忠刻公は若くしてお亡くなりになりまして、最後は尼僧さんとして生きていった、そういった人生であったと」
さらに、別の墓についても聞きました。
「3代将軍家光公の奥様にあたります、孝子の方のお墓になります。この方はですね、公家の出身ということで、あまり家光公との仲もよろしくなかったという、そういった史実も聞いたことはございますので、結婚をしてからは静かにお暮らしになったと、そういうことがいえるのではないかと思います」
傳通院には、徳川将軍家にゆかりのある人々の墓が、ほかにも数多くあります。
将軍家に関係する人物だけで、およそ50人が埋葬されているといいます。その特徴は、女性が多いことです。
「於大の方が埋葬されて以降ですね、傳通院は徳川家の女寺といわれるようになりました」
増上寺との深い関係
傳通院が徳川家ゆかりの女性たちの菩提寺となった背景には、徳川将軍家と浄土宗との深い関係がありました。
「最初は小さな草庵ではあったんですが、当時その草庵を開いた方が了譽聖冏上人(りょうよしょうげいしょうにん)という方になります。その聖冏上人のお弟子さまが大本山増上寺を開いた聖聰上人(しょうそうしょうにん)という方になります。その聖聰上人と徳川家康公はお付き合いがあり、そして於大の方のお墓を建立するにあたりましては、その聖聰上人にご相談をされたそうであります」
そして、聖聰上人が家康に対し、於大の方の墓を建てる場所として提案したのが、200年前に小さな草庵があった現在の傳通院でした。聖聰上人の助言を受け入れた家康は、母・於大の方の墓を建てる場所にもこだわりました。
「徳川家の菩提所をこの場所に建立するにあたりましては、ちょうど江戸城の南側にあります増上寺から真北にあるのがこの傳通院の場所になります。その増上寺・寛永寺と並ぶ、その三霊山の一寺院として、もう江戸を代表するお寺として、名をとどろかせていたそうであります」
傳通院は広大な境内に全国から学僧を受け入れ、「関東十八檀林」の一つとして僧侶の養成も担っていたといいます。
「多いときでおよそ1000人のお坊さんがいたそうでありまして、ちょうどあちらの山門から今信号が見える、春日通りにあそこはなりますが、あの間にお坊さんの寮が立ちならんでおりました」
上人秘話 額の三日月伝説
続いて本堂へ向かうと、荘厳で重厚な佇まいが歴史を今に伝えていました。堂内には広さと独特の雰囲気があり、訪れた人を圧倒します。
本堂で存在感を放つ本尊は、およそ400年前に造られたもので、長く人々の信仰を集めてきました。そして、隣に鎮座するのが傳通院を開いた僧侶の像です。
「こちらの真ん中の黒いお像ですが、こちらが傳通院の開山上人、了譽聖冏上人という方になります。浄土宗の確立をしてくださった功績をもつ、ご上人でございます。そして聖冏上人の戒名なんですが、『繊月』という風に書いてあります、いわゆる三日月を意味するんですが、その理由といたしまして、ちょうど額に三日月の相があるのが特徴でいらっしゃいます」
この三日月の相によって、真っ暗な洞窟の中でも勉強できたという七不思議が伝わっています。
「この三日月の相から光を放って、そしていろんな書物を読んだり書いたりをしていたという、七不思議がございます」
小さな草庵から始まり、於大の方の墓をきっかけに徳川家の菩提寺となった傳通院。境内には、将軍家ゆかりの女性たちの人生と、江戸を代表する寺院へと発展した歴史が刻まれています。
(2026年9月11日放送分より)
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