日航ジャンボ機墜落事故から12日で31年。航空史上最悪と言われる日航機墜落事故の当時を知る人が少なくなっていく中、今改めて振り返る。

1985年8月12日東京(羽田)発大阪(伊丹)行の日本航空123便が群馬県上野村の山中御巣鷹の尾根に墜落し、乗員乗客520人が亡くなった。単独機としては航空事故としては過去最悪の大惨事となった。墜落現場からはコックピットに設置されていたボイスレコーダーが発見されており、墜落までの32分間が克明に記録されていた。中には操縦不能という言葉や、舵のきかない機体を前に胸の内を口にする機長の言葉とともに、絶望的な状況下でも乗客を励まし続けた力強い機長の言葉も収められていた。

困難を極めたのは遺体の身元確認作業だった。520人の遺体の引き渡し現場となった藤岡市民体育館は壮絶を極めた。訪れた遺族のむせび泣く声や絶叫――。

事故発生当時、群馬県高崎署の刑事官として身元確認班の班長を勤めていた飯塚訓さんは「日航機事故は生涯忘れられるものでない。(五体)満足なご遺体はほとんどないため、これが地獄絵図という感じだった」と語る。

全ての作業が終了したのは同年12月。飯塚さんたちの手によって520人中518人の遺体の身元が判明した。

その後事故調査委員会の調べによると事故の原因は機体後方部にある圧力隔壁の破裂によるものだと断定された。そもそも日本航空123便に使われていた飛行機はこの事故の7年前の1978年6月に伊丹空港の着陸時に尻餅事故を起こしていた。その際に圧力隔壁が破損しておりボーイング社に修理に出した。結局事故調査委員会の報告によるとその圧力隔壁の修理が不十分で、金属疲労起こし、圧力隔壁に亀裂が入ったことが事故の原因であった。

しかし事故調査委員会が修理ミスと断定しているにも関わらず、刑事責任に誰も問われていないため、遺族の気持ちのやりどころはないのが現状だ。

事故後JAL123便は欠番となり、あの日以来空を飛んでいない。事件から31年。今年も御巣鷹の尾根では慰霊登山のルートが開放された。31年目の夏を前に多くの人が訪れている。