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 株式相場には「山高ければ谷深し」という格言がある。文字通り、相場は急騰することもあれば暴落することもあるという意味の言葉だ。

 ここに、絵に描いたように高くまで上り詰め、一気にどん底まで転落した起業家がいる。SYホールディングスの杉本宏之会長(39)だ。

 2005年、不動産業界としては最年少の28歳で上場、一躍時の人になった。だが、会社は2009年に倒産、191億円の負債を抱え民事再生法を申請。自己破産する羽目に。だが、再び起業という茨の道を選んだ。

 杉本は断言する。「経営って辛いことが99%。楽しいことなんてない」と。

 なぜ彼は何度も高い山に挑むのか。壮絶な起業家人生を語った。

■父親が初任給の半分を勝手に引き出し蒸発

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 「伸び続けるしか無い。このまま20年かければ三井とかにも勝てるんじゃないかって本気で思っていました」

 2005年、杉本は得意の絶頂にいた。上場によって世間からの注目が集まり、資産は100億円を突破。1本100万円以上するロマネコンティを一気飲みしたこともあった。不動産は1件当たりの取引額が高いこともあり、電話1本で数百万、数千万が動く。

 「不動産という方法で上場したし、不動産しか知らなかった。“勘違いした強み”だった」。

 1977年に茨城県で生まれ、神奈川県川崎市で育った。不動産業界で商売をしていた父はバブル崩壊で失敗し、中2の時に母を亡くした。父子2人、風呂なしアパート暮らしを余儀なくされた。高校時代は「バイクに乗って、"音を立てる集団"の"リーダー的な存在"だった」。それでもバイト代を家には入れなければならず、父と取っ組み合いのケンカをすることもしょっちゅう。時には「包丁で刺されたこともある」と笑う。刺された指にはまだその痕が残っている。

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 父と同じ不動産業界に飛び込んだのは、専門学校で宅建資格を得て中退した直後のことだった。営業マンとして働き始めた矢先、父が杉本の初任給の半額ほどを勝手に引き出し蒸発してしまった。親しい身内がいなくなった杉本は1人で生きていくということを自覚。気づけばダントツの営業力でトップ営業マンにない、年収は2000万円を超えた。

 ここで、得意の絶頂にいた杉本を刺激する出来事が2つ起きる。

 1つ目が、"ネットバブルの寵児"と言われていたサイバーエージェントの藤田晋社長を知ったことだ。「僕と4歳しか違わないのに、こんなすごいことができるなんて」。杉本の頭に、初めて"独立"の二文字がよぎったという。そして2つ目、決定打になったのがアメリカの同時多発テロ事件だった。同日ラスベガスにいた杉本は「もしかしたらあの飛行機に乗っていた可能性もあった。どこまで挑戦できるかやってみよう」と決意。帰国後、すぐに会社を設立した。それが運命を大きく変える「エスグラントコーポレーション」のはじまりだった。

■社員たちが、ボーナスの返金を申し出

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 会社を作ってみたものの、何をどうすればいいかは皆目見当もつかない。しかも独立する際には自分の顧客などの人脈は置いてこなければならないの慣習だったが、それを「ちょっとだけ持ってきちゃった」ことが業界内で顰蹙を買い、爪弾きに。客もいない、肝心の売り物もないという厳しい経営状況での船出だった。

 しかし、かつてのトップ営業マン・杉本を慕い、次々と社員は増えていく。いよいよ資金繰りに困窮した時のこと。皆を労うために出した、なけなしのボーナスを社員たちが自ら返金。「辛いんでしょ?なんで言ってくれないんですか。困ってるなら頼ってくださいよ」。杉本は滂沱の涙を流したという。

 これを機に、エスグラントコーポレーションは社員一丸となって不動産業界を突き進んでいった。気づけば400億円を売り上げ、目黒の高層オフィスビル・アクロタワーに移転。隣は名門・目黒雅叙園、接待は日本料理店やステーキ店が当たり前だった。

 「それも今の僕にとってはトラウマですね。戒めの象徴です」。杉本たちをリーマンショックが襲った。

■「死んでくれ」「殺してやる」

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 不動産業界の潮目が変わったのが2007年9月頃。「銀行が来て"カネが貸せなくなるかもしれない"と言った」。サブプライムローンに端を発する、リーマンショックの前兆だった。不動産業界は資金繰りがすべて。「例えば売上高200億円規模の会社だと、2年先まで仕込んでいる状態。土地を買って整えて、そこからマンションやビルを作るわけだから。借り入れが300億円とかは当たり前」。

 「銀行さんは、調子がいい時は"どんどん借りてくれ。金利下げるから今すぐ他行から乗り換えろ!"という調子。でも2007年9月以降、だんだん厳しくなってくると、まさに"てのひら返し"っていう感じでしたね」。多額の個人資産も、芸術品や株などに分散させることなく、すべて不動産に投資していたことも後の転落に拍車をかけることになる。

 資金繰りがモノを言う不動産業界で、貸し渋りは致命的だった。みるみる負債は膨れ上がり、ピーク時には400億円もの負債を抱え、金利は日割り計算すると300万円に。そしてエスグラントコーポレーションは2009年3月、東京地裁に民事再生法適用を申請する。

 多くの債権者たちに向き合い、正直に「カネはない」と伝え続けなければならない。時には「半分拉致されるように(債権者の)会社に連れて行かれ『死んでくれ』『殺してやる』と憎しみの言葉をぶつけられ続けたという。

 社内も悲惨だった。「"給料が半分になってもついていきますから、踏ん張りますから!頑張りましょう"って言ってくれた社員の名前が、翌週のリストラのリストに載ってるんですよ。やりきれない辛さだった」。怨嗟の渦に杉本はいた。

■「頑張った結果、こうなったんだから胸を張れ」堀江貴文の言葉

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 そんな時期を最も近くで見てきた人物がいる。現在はグループ会社の社長を務める湯藤善行だ。リストラを担当していた湯藤は「その頃の記憶があんまりないです。二度と経験したくない」。心身のバランスを崩すこともあったと振り返る。

 疲弊しきった杉本の支えになったのが、先輩起業家からの言葉だ。民事再生が報じられた時、最初に電話をかけてきたのは、あの堀江貴文だった

 夜中の電話。開口一番、堀江はこう切り出した。「落ち込んでんのかよ?」。

 追い詰められていた杉本は激昂、「そりゃ落ち込みますよ!」と切り返した。すると堀江は「お前、それは違うだろ。堂々としろよ。詐欺をやったわけじゃない。頑張って起業して、頑張った結果、こうなったんだから胸を張れ。犯罪者みたいな顔してたら本当に悪いことしたみたいな雰囲気になる」。

 それでもなお「堀江さんみたいにはできません」と言い返す杉本に、堀江は「俺は国と戦ってんだ、どうなるか分からない。そんな俺がこんなに元気なんだ。だから胸を張れ」。当時、ライブドア事件で係争中だった堀江らしい叱咤激励だった。テイクアンドギヴ・ニーズの創業者、野尻佳孝からも「前を向け」と激励の電話が届いた。

 杉本が起業するきっかけになった、サイバーエージェントの藤田晋にも救われた。サイバーエージェントはエスグラントコーポレーションの株を持っていたのだ。杉本は民事再生を前に、藤田に相談した。藤田はこう切り出した。「杉本くんのところのバランスシート、決算書を見れば潰れるのは分かる。うちの投資会議でも、役員がエスグラントは"やばい"と…」。その後の沈黙で「藤田さんは(株を)売るんだ。裏切られた」と思い、それ以後、藤田と疎遠になってしまった。

■藤田晋「僕は杉本くんが復活する方に賭けたんだよ」

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 その後、倒産間際に債権者名簿や株主リストを見た杉本はあることに気づく。藤田は1株も売っていなかったのだ。

 「これどういうことなんですか!」。

 慌てて電話をかけると、藤田は「売るとは言ってないよ。うちの役員は売れと言っていたけど。僕は杉本くんが復活する方に賭けたんだよ。今でもその判断は間違ってないと思ってるから」。

 藤田のその一言をきっかけに、裸一貫から出直すことを決意。再び起業し、不動産業界で戦い続ける道を選んだ。

 「経営してて感動があって楽しい、なんて上っ面なこと言えない。辛いことが99%。それでも一緒に成長してこの国を盛り上げたい」と語る。ここまで過酷な思いをしてもなお、挑戦し続ける理由はどこにあるのか。もしかしたらその答えは、「まだ見ぬ1%」にあるのかもしれない。(AbemaTV/『偉大なる創業バカ一代』より)

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