起業に失敗は付き物だ。だが、「10度の失敗を経て、なお立ち上がった」となれば話は別。強靭な精神力というほかない。そんな「10転び11起き」で大成功を収めたのが、「ピザーラ」を経営するフォーシーズ代表取締役兼会長の淺野秀則だ。
過去に旅行代理店にラーメン屋、レンタルビデオ店にウーロン茶輸入販売など、10の事業を立ち上げるも、すべて失敗。家も失い、大火傷で300針縫うという不運に見舞われながらも、前へ前へ、歩みを進めてきた。そんな淺野の壮絶な半生を振り返る。
■ピザーラを始めたのは『E.T.』がきっかけ
1980年に創業したフォーシーズの主軸を担うのが宅配ピザの「ピザーラ」だ。1987年に東京・目白で産声を上げたピザーラは、全国の世帯数のうち、実に55%をカバーしている。
淺野がピザーラを始めたのは、映画『E.T.』がきっかけ。「映画が宅配ピザのシーンから始まるんです。それを見て、”これならいける”ってひらめいた」。
さらに、「当時、レンタルビデオ店をやっていて、そこで目についたのが『ゴジラ』だったんです」。
“世界を席巻する日本発のコンテンツになって欲しい”、そんな願いをこめて「ピザ」と「ゴジラ」を合体させたのが「ピザーラ」の名前の由来だ。
もちろんピザのノウハウは皆無だった淺野。しかし、そこは「まずやってみる」男。フランス大使館に目を付け、フランス人が食べている本格的なパンは、誰が作っているのか。ずっと大使館の前で張り込みをしたという。
そのうちに、彼らが食べているのが旧軽井沢の名店「浅野屋」のパンであることを突き止める。ここまでわかればあとは淺野のやるべきことは一つ。浅野屋本社に行って「小麦を卸して下さい」と説得するだけだった。
「でも当時の会長がずっと睨んでいて怖かった」。それでもひるまないのが淺野の強さだ。
■1年半もの間、包帯でぐるぐる巻きの生活
1953年生まれの淺野は、100年以上の歴史を持つ紙器メーカーの3代目御曹司だ。いわゆる「ボンボン育ち」の淺野だったが、父が倒れたことで生活は一変、徐々に独立精神が芽生えてきたという。慶応大学在学中には旅行代理店を立ち上げ、25歳でクラブハウス経営者になった。
クラブハウスを経営していたときに、不運に見舞われた。大量の唐揚げを作っているうち、不注意で油に引火させてしまう。
焦って傍にあった新聞紙を入れてしまったことで火力はさらに増し、完全にパニックに陥った。油ごと鍋を捨てようとするも、こぼしてしまい延焼。鍋も落とし、全身火だるまになってしまった。
結果的に、全身にIII度の熱傷を負い、体のあちこちから皮膚を移植。300針も縫う羽目になり、1年半もの間、包帯でぐるぐる巻きの生活を送った。淺野の身体には、いまだにその傷跡が残る。
「入院中、テレビを見ていると、ピンクレディーが”これからはウーロン茶です”って言ってたんです。それを見た母が”秀則、これはウーロン茶を売ろう。1個3600円で売れば1年後にはロールスロイスに乗れる”と言ってきたんです」。
今度はウーロン茶輸入販売事業に乗り出した淺野。だが結果は、ロールスロイスどころか家をも失う結果に終わった。「早すぎたんです。まだ当時、ウーロン茶を買おうなんて人はいなかった。それどころか、”お茶にカネを払う”という感覚がなかった」。
さらに今度は、母親が病気になって療養を余儀なくされた。それでも淺野は立ち上がる。今度はラーメン店。無論、ラーメンなど作ったことなどなかった。それでも「そこそこ上手くいった。利益も出て。でもこれじゃダメだと思った。淺野家の再興には程遠い、と」。
しかし、この”小さな成功”は淺野に予期せぬ変化をもたらす。
「1ユニット30万円儲かる仕事をたくさん作ればいいんじゃないか」。フランチャイズの発想の源だ。アイディアばかりに飛びついてきた淺野だが、足を止めて考えることも増えた。
「ウーロン茶の失敗から学んだんです。僕はチャンスだと思ったらすぐに始めちゃう。要するに”酔っていた”んです。でも、ここまでたくさん失敗を続ければ”細胞レベル”で学んでいく」と振り返る。「E.T.」でピザーラを閃く少し前のことだ。
■二人三脚で会社を大きくしてきた妻の存在
ピザーラという一大チェーンを築き上げた淺野だが、実は手がけている業態は全部で55にものぼる。”なんでもやってみる男”の真髄は今も生きているのだ。
あまり知られていないが、淺野が会長を務める「フォーシーズ」はフランス料理の巨匠・ジョエル・ロブション氏と提携。同氏が監修する店舗などの運営にも携わっている。
また、ピザーラの成功の裏には、妻であり社長を務める幸子氏の存在があった。毎日のように行われる、ピザーラの新商品開発会議で最終決断権を握るのは、実は幸子氏だ。
「味については80%から85%のお客様が美味しいねと言ってもらえるような味に気を遣っている」。淺野については「陽転思考。常にいい風に持っていきたい願望が強い。それが色んな行動につながっていく。でもあんまり明るいと疲れることもあるのよ」と笑う。
前出のジョエル・ロブション氏も幸子氏に信頼を寄せる1人だ。年数回行われるロブション氏との会議では、幸子氏自ら先頭に立って交渉にあたる。時にはロブション氏に面と向かって「このメニューは日本では流行らない」と言い切ることもあるという。
1983年に淺野と結婚、二人三脚で会社を大きくしてきた幸子氏は、淺野にとって最高のパートナーなのだ。
そんな淺野の経営哲学はずばり「チャレンジ」。なんとも淺野らしい一言だ。「僕は11回目のチャレンジがなければただの”失敗者”で終わっていた。今の若い人たちはトラブルを知らない。仲良く、横一線。でも僕たちの時代はまだ”終戦”が少しちらついていたんですよ。
若い人たちもどんどん色んなことにチャレンジして欲しい」と語る。一見ひょうひょうとした様子の淺野だが、その眼光は鋭い。ピザーラの次なる一手に注目だ。(AbemaTV/「創業バカ一代」より)