「働き方改革」の波に逆らい、真逆を行く企業がある。それが横浜市都筑区にある「秋山木工」だ。創業1971年、社員数34人ながら年商13億円を稼ぎ出す。一流の職人集団として家具業界では名高く、特注家具の依頼主には迎賓館や宮内庁、一流企業の名前も並ぶ。
ある有名企業の社長室の大テーブルには伊勢神宮のご神木である「御神杉」という樹齢400~500年ほどの非常に珍しい素材を使用、木目が一番美しく見えるように何種類ものかんなを使って磨きをかける。「立ち上がり」と呼ばれる縁の部分は素材を活かし、塗装も「拭きうるし」によって独特の光沢を醸し出すよう仕上げを施す。
そんな秋山木工を率いるのが、創業者の秋山利輝。「木と会話できなければ職人じゃない」と、家具職人としての心構えを語る。
秋山木工がユニークな点は、昔ながらの「丁稚制度」を敷いていることだ。丁稚制度とは江戸時代から昭和初期にかけて盛んだった徒弟制度の一つで、職人や商家などの親方の家に住み込み、一定期間奉公するのだ。"経営の神様"こと松下幸之助氏、ホンダ創業者の本田宗一郎氏も"丁稚時代"を経験している。秋山木工でも家具職人の見習いを「丁稚」と呼び、団体生活を通して生活習慣、そして木工技術を学ばせている。
自身の経験から、「できる職人じゃなくて"できた職人"を育てたいんです」と語る秋山は、技術だけではなく人間性までも厳しく指導、職人たちは「心得30箇条」を暗唱しなければならない。
しかし、一流の職人になるための修行は生半可なものではない。丁稚になる際には、男性・女性問わず丸坊主になる。4年目の河村瞳さんも、頭を丸めた女性丁稚のうちの一人だ。「ものをつくることより大事なことを教えてもらった。家族を大事にするとか、思いやりを持つとか、普段やっているつもりでできていなかったことが見えてきた」と話す。
それだけではない。朝5時になると丁稚は体操を始め、次に2kmのマラソンをこなす。それが終わってようやく朝食だ。もちろんメニューを決め自炊するのも丁稚たち。食べ終われば、近隣の掃除が待っている。掃き掃除だけではなく、道端の草むしりまで行う徹底ぶりだ。
他にも「恋愛禁止」「メール禁止」「親からの仕送り、小遣い禁止」「"ふり"をしない」「周りを暗くしない」などのルールが存在する。さらには「風邪を引くことも許さない」という。2回風邪をひいたら減給、3回目はクビになる。
秋山は昭和18年に奈良県明日香村に生まれた。一家は貧しく、食べるものは麦飯とたくあんとしかなかった。学校に行っても教科書やノートがなく、成績は"オール1"で最下位という体たらく。だが手先だけは器用で、家の修繕などの大工仕事は秋山が担当、近所の家の修繕も行っていたという。転機が訪れたのは中学校卒業の日だった。先生から、大阪の注文家具屋への就職を勧められたのだった。
手先の器用さに自信があった秋山は、親方に「作らせてくれ」と直談判する。だが、何も作れなかった。親方の前でボロボロと泣き、プライドを捨てた。兄弟子に教えてもらう日々。努力が実を結び、丁稚になって7年目、22歳で現在の貨幣価値に換算すると100万円の月収を得るまでになっていた。
秋山の仕事を見ていた丁稚たちが目を輝かせる瞬間があった。それが秋山のかけた「かんな」の木くずだ。職人の技は見て盗むもの。丁稚たちにとって、秋山の削ったクズは宝物なのだ。丁稚の一人は「木くずがサーッて出る時の音が全然違う。ツヤもぜんぜん違う。それを見てすごいと思った」と語る。
こうして厳しい修行を約5年間経て、初めて職人として仕事を任せられるようになる。秋山木工では8年経つと強制退職させられるのだ。「職人の伸び盛りは25~28歳の頃。8年経過するとちょうどその伸び盛りの時期。その時期に自分の下にいるのはよくない」と語る。
丁稚制度によって一流職人を輩出する秋山。一流職人を育てるということは人を育てるということに他ならない。それを理解しているからこそ、命がけで丁稚の面倒を見るのだ。世間に知られ、賛否両論が寄せられた秋山木工の丁稚制度。だが、彼らの腕が一流であることに秋山は自信を持っている。
「僕が『こういうふうになって欲しい』というレベルには必ずたどりつく。僕を超える職人を10人以上作ってみせる」。
そのために秋山は持てる全てを次世代に継承していく。(AbemaTV/『偉大なる創業バカ一代』より)