初の"国産SNS"、mixi。その生みの親が笠原健治氏だ。笠原が有限会社イー・マーキュリーを設立した1999年はまだ今ほど起業が一般的ではなかった。同社は2006年、株式会社ミクシィに社名変更・上場し、現在は売上2000億円以上、社員数500人以上を数えるまでに成長した。
mixiの発展はまさに「社会現象」と言えるものだった。2004年12月に利用者20万人、2005年12月には200万人、2006年には660万人が利用するサービスにまで成長した。勢いそのままに東証マザーズに上場、流行語大賞トップ10にも選出された。資産は一時1500億円にまでなったともされている。
数多くのIT起業家やエンジニアを輩出した「76世代」の一人。しかし、もともと起業家を目指していたわけではないのだという。そんな彼が、いかにしてIT業界の寵児となったのか。また、その原動力はどこにあるのだろうか。AbemaTV『創業バカ一代』では、笠原の素顔に迫った。
■きっかけは留学生の一言、駆け出しだった堀江氏と協業したことも
1975年、笠原は大阪府に生まれた。政治に興味を持ち、官僚を志して東京大学に進学したが、「なんとなく違うなと思い始めて、悶々として、自分の将来がはっきり見えない時期があった」のだという。
3年時に経営戦略のゼミに入り、企業のケーススタディストーリーや分析を行った。そこで扱ったのが、マイクロソフトやアップル、デルといった世界的なテクノロジー企業だった。
「ビル・ゲイツもスティーブ・ジョブズも同世代。同じ時期に起業して、世界に名を馳せている。エキサイティングな世界があるんだ。起業も、大きな可能性を実現する方法なんだ」と感銘を受けたという。周囲が就職活動に勤しむ中、お金を貯めて初めてPCを買い、一人ホームページの作成方法を勉強し立ち上げたのが、求人サイトの「Find Job!」だった。1997年のことだった。お金の管理も自分一人でやっていたという。
日々刻々と変化していく求人情報は、リアルタイムでのアップデートが可能なネットとは相性がいい…はずだった。
「雑誌で求人情報を見るのは手間。だから絶対当たると思っていた。でも、立ち上げただけではダメだったんです」。
求人情報が集まらず、雑誌を見て一軒ずつ企業を訪問しては情報を掲載させてもらう日々が続いた。まさに本末転倒だった。そうした地道な行動が実を結び、少しずつ掲載依頼も増えていった。1999年に法人化した際には、年商1000万円程度にまで成長していったた。
笠原が次に狙いを定めたのが「オークション」だった。提携の話を持ちかけた相手が、あの堀江貴文氏。当時はライブドアの前身、オン・ザ・エッヂを経営していた時代で、「お互いに駆け出しでした」。
若き二人が立ち上げに奔走したオークション事業だったが、そこに立ちはだかった壁がYahoo!の存在。やればやるほど差が開いていった。結局、事業は失敗に終わった。
■Facebookの上陸で一気に暗黒時代に
3、4人で始めた会社だったというミクシィ。サービスの原型となったのが、2002年にサービスが開始した「Friendster」という海外のSNSサービスだった。自分のプロフィールや友達の一覧を見ることができ、ネット上で人々が連鎖的につながっていく「SNSの基本形」とも言えるサービスだった。
「変わったサービスだなって思ったんです。当時、ネットに自分のプロフィールを出すことはなかったですから」。その一方、笠原は、使い続ける理由がないとも感じていたという。「ただ友達のプロフィールと交友関係が見られるだけでしたから」。
笠原は、今も事業を始めるにあたって大事にしているという原則「使い始める理由があるか」「使い続ける理由があるか」に照らして、mixiには様々な要素を取り入れた。「日記」とコメント機能や、プロフィールページを訪れた人の「足あと」機能などだ。招待制を採用したこともその一つ。「友達同士が繋がる、友達から誘われる、コミュニケーションを取りたくて入る、また他の人に伝えたくて招待する。その"招待の"波を広げたかった」と狙いを明かす。
一躍ブームになったmixiだったが、Facebookなど、海外SNSの上陸で一気に暗黒時代に突入することになる。
「FacebookやTwitter、スマホやLINEの登場、新しいものはもてはやされますから。mixi自体も、新しさに付いていけてなかった。数年立つと人間関係も一巡していく。古い人とつながっているよりも、フレッシュな人と関わっていきたいという気持ちが出て来るのではないか」。
■「モンスト」の誕生
苦境を打破するために、新しいことを試していったが、解は見つからなかった。小さなチームを作り、意思決定が早くなるようにもした。創業当時のように、小さなチームで機動的に動き、様々な事業に挑戦していく。フリマやニュースアプリなどのサービスもアイディアとして浮上した。
その中から大ヒットしたのがゲーム事業の「モンスターストライク」、通称「モンスト」だ。
「最初はセンター返しくらいのヒットでした。そこからぐんぐん伸びていって、場外大ホームランになっていきました」。
重視したのは位置情報を使った、親しい友人とのマルチプレイだ。シンプルな操作感や、mixiで培った人とのつながりを活かしたサービスは爆発的なヒットを記録した。
笠原は「それまでネットのゲームは個々でやるイメージでした。ネット上で対戦したり、ゲーム上で頂上決戦をやっているイメージです。ゲーム会社の出身のゲームタイトルはそうなりがち。でもmixiは、友達とコミュニケーションを取ることに主眼があった。単純に売上を伸ばそうと思ったらゲーム好き同士でじゃんじゃんハマってくれるゲームの方が売上を伸ばしやすい。でも僕達は全く逆の方向でした」と振り返る。
最終的にモンストは4000万人のメガヒットアプリにまで成長、ミクシィの業績を再び押し上げた。
■そして社長退任へ
37歳になった笠原は2013年、大きな決断をする。それが社長退任だ。代表権のない会長に退き、経営者ではなく"一人のクリエイター"として、ゼロからイチを生み出すポジションにこだわった。
「社長業の大事な役割は、全社的なバランスを取ること。情報を幅広くとってきて全体を考える。会社としても新しい事業が求められている時期だと思ったし、自分自身、事業を作るのが好きなので」。
そんな"クリエイター"笠原が送り出したサービスがある。2015年にリリースした家族に特化したSNS「みてね」だ。自身の子育ての経験を元に生み出したサービスで。「スマホに動画が1800本入っていたんですけどそのうち1700本は子どもが生まれた後に取った動画で。子どもは圧倒的に新しくて面白い。だから親と共有したいし、面白がってほしい」と話す。
子どもの写真を家族間で共有することで、夫婦だけでなく、祖父母の間でも新しいつながりを生む仕掛けになっている。自動で動画を編集してくれる1秒動画機能なども搭載、リリース以来、急激に成長している。
「ただリリースするだけでなくどれだけ満足してもらえるか、そこに一切の妥協を許さないのが笠原だ」と社員たちは口をそろえる。「良いものができたので知ってほしいと思って、公園でビラ配りをしてみました。"mixiの者なんですけど…"と言ったんですけど、基本怖がられて、あまり効果はありませんでした」と苦笑、「ユーザーを一人取ることの大変さを改めて知ったし、使ってもらって喜んでもらいたい、驚いてもらいたいという気持ちが強くなった」と振り返った。
変化が激しいIT業界では、脚光を浴び、あっという間に舞台から姿を消してしまうことも珍しくない。その最前線で戦い続けてきた笠原。
「うまく行かなかった体験もあるので、謙虚さや危機感もある。大きな成功体験と、失敗の経験が合わさって、次の主戦場で一番手になれるサービスを生み出していける会社。基本的に、世の中はITから変わっていく。10年、100年スパンで考えても、それは続くだろう」と展望を語る。
「"好き"を徹底的に追求する」。成功とどん底を味わった男は、次にどんなサービスを生み出してくれるのだろうか。(AbemaTV/『創業バカ一代』より)