講談社が主催する「群像・新人文学賞」を受賞し、きょう発表される芥川賞の候補作にもなっている北条裕子さんの短編小説『美しい顔』。舞台は、震災直後の東北。幼い弟と避難所で過ごしながら、行方不明の母親を探している女子高生・サナエが主人公だ。サナエは被災者に群がるメディアに嫌悪感を抱くが、注目されることで支援が集まることを知り、苦しみながらもカメラの前で悲劇の少女を演じる。
『美しい顔』が描いたのは、震災、災害とメディア。そして、日常への復帰という被災者の葛藤だ。小説でありながらドキュメンタリーのような作品に、評論家の多くが賞賛の声を送った。
歴史ある文学賞での栄誉をデビュー作で勝ち取った北条さんは、受賞に際して「小説を書くことは罪深いことだと思っています。この小説はそのことを特に意識した作品になりました。それは、被災者ではない私が震災を題材にし、それも一人称で書いたからです。実際、私は被災地に行ったことは一度もありません」(『週刊読書人』6月1日号掲載」)とコメント。被災地には足を運ばず、テレビに映る悲惨な状況を見ていただけの自分。内側にため込んだ不快なものを小説という形で吐き出したのだという。
彼女の想像力だけで書かれたとされる震災小説だったが、芥川賞の候補作に選ばれた直後、ある問題が発覚した。それが"参考文献の未記載"だ。北条さんによると、「美しい顔」の執筆にあたっては先に出版されていたノンフィクションなどを参考文献として使用。作品で描かれていた情景や、被災者の言葉を無断で使っていた。
その引用の仕方はさまざまで、例えばサナエが遺体安置所で亡骸となった母と対面する場面では、ノンフィクション作家・石井光太さんが書いた『遺体』と似た表現が目立った。AbemaTV『AbemaPrime』の調べでは、類似した表現は少なくとも10箇所に上っている。
こうした指摘を受け、北条さんは先週、初めてコメントを発表。参考文献の記載ミスと、その扱い方について謝罪した。「自分が表現したかったことを表現するならば、同時に、他者への想像力と心配りも持たなければなりませんでした。大きな傷の残る被災地に思いを馳せ、参考文献の著者・編者を始めとした関係者の方々のお気持ちへも想像を及ばすことが必要でした」「深くお詫び申し上げます」。また、講談社は北条さんの新人文学賞受賞が決まった4月、彼女が出産予定日を控えていたことから参考文献について適切な対応が出来なかったなどと説明した。
番組では今月2日、法的な側面から弁護士を交え検証した結果、著作権侵害とまでは言えないのではないか、との結論に達した。そこで今回は、文学の側面からこの問題を考えた。
■"参考にされた"表現のベースになった人たちの見方は
一連の問題について、石井さんの取材を受けた人たちはどう感じているのだろうか。取材班は先週末、『遺体』の舞台、岩手県・釜石市を訪ねた。
7年前、多くの遺体が運び込まれていた廃校は取り壊され、今は地元警察の仮庁舎になっている。当時、ここで検死作業に当たっていた医師の小泉嘉明さんは、百体を超える遺体を目の当たりにする状況は想像だけで描くことは難しいと感じている。小泉さんが『遺体』からの引用だと考えているのは、毛布にくるまれた亡骸を"蓑虫"という独特の言い回しで表現したところや、"うっすらと潮と下水のまじった悪臭"といった、その場にいたからこそ感じえた部分だろう。「北条さんにはベースがないもんだから、書きようがないんだよ」。
当時、遺体安置所にいたのは警察や消防、検死に協力していた医師など、ごく一部の人たちだけで、メディアの取材は全て断っていたという。しかし元葬儀所職員の千葉淳さんは、石井光太さんの現場での取材姿勢に心を打たれ、助手として手伝ってもらうことを条件に、安置所の中に迎え入れた。「石井さんは修羅場をくぐってきた方なんで、"ご遺体の頭を持ち上げて下さい"と言えば"はい"ってすぐやってくれる方で、この人は素晴らしいなと思ってお付き合いを始めたんです」。
『遺体』の出版に際して、石井さんは内容と表現について関係者と精査を重ね、細心の注意を払ったという。千葉さんは「北条さんが私の傍に付いて、私の言葉を聞いて書いたわけじゃなく、石井さんの作ったものを引用しているのだから、ちょっと解せないところあるよね」。
当時、安置所でお経を読み上げていた仙寿院の芝﨑惠應住職は、石井さんが見たことを何でも描いているわけではないと証言、「簡単に感動したからって使うっていうのは非常に安易すぎるし、被災者からすれば小説などには使ってほしくないっていうふうには思います」と話す。芝崎さんは『遺体』の出版に際して、石井さんに被災者の想いを何度も伝えたという。「亡くなった人と遺族の気持ちを踏みにじることは絶対にダメだと言った。石井さんもそれは理解していましたので、"これで間違いないか?"って、何度も確かめて書かれている」。亡くなった方、そして遺族の尊厳だけは絶対に傷付けない書き方にしようとした石井さんが紡ぎ出したのが、「毛布の端や、納体袋のチャックからねじれたいくつかの手足が突き出している。」という表現だった。北条さんの小説では、これによく似た「あちらこちらで毛布の隅や納体袋のチャックからねじれたいくつかの手足が突きだしていた」という描写が出てくる。
■"文学的価値"からの見方は
しかし、こうした問題があっても、震災を描いた小説『美しい顔』の評価は下がらず文学的な価値は極めて高いという声も上がっている。
被災地・釜石市で書店を経営する桑畑眞一さんは、あくまで作品の文学的価値が大事だと考えている。「作品が良ければいいんじゃないかと思いますよ。それを無断で引用したことは悪いことなのかもしれないけど、あくまでも作品で判断されるべきだと思います。それ以上でもそれ以下でもないと思います」と話す。
また、田中和生・法政大学文学部教授も、「震災後文献とか資料とか当然見ているんですけど被災者じゃない自分が、被災者になりきった感情をあたえられて、しかもそれがいかに過酷な体験だったかということを追体験して正直涙を流すというような感情の揺さぶられかたをしたのがこの小説が初めてだったので、表現の力だろうと思います」と指摘している。
日比嘉高・名古屋大学大学院准教授も、自身が務める新人小説の書評で『美しい顔』を「上半期一番の作品」だと評価した。「最初に読んだのは騒動が起こる前だが、率直に素晴らしい小説だと思ったし、感動した。主人公の一人称で物語が進むが、その私語りにドライブ感があった。また、被災地の状況をそこに乗せて、最終的に新生活に踏み出していく一連の流れは、最後まで興味を持って読ませてくれるものだった。震災から7年経っていることを改めて考えさせてくれる、力のある作品だと思う」。
北条さんは「フィクションという形で震災をテーマにした小説を世に出したということはそれ自体、罪深いことだと自覚しております」、そして、この作品の、執筆の動機について「私には震災が起こってからというもの常に違和感があり、またその違和感が何年たってもぬぐえなかった」「理解したいと思いました。主人公の目から、あの震災を見つめ直してみたいと思いました。それは小説でなければやれないことでした」と説明している。
北条さんが借用したと思われる表現は、石井さんだからこそ見ることができた状況を元にしている。そうした表現の借用があった点を差し引いたとしても、『美しい顔』は文学的に高い評価に値するのか、それとも、そんなことをしてしまった以上は評価できないという世間一般の声の方が妥当なのだろうか。
日比准教授は「出来事を時系列で追って、そこで人々がどんな経験をして、どんなことを思ったのかを再現するだけだったら、小説というメディアである必要はない。小説であるからには、ある世界の上に登場人物を作り上げ、生かしていくことが必要だ。読者はその登場人物の経験を擬似的に受け取る。今回、そこで"震災を利用した"と言われればそうかもしれないが、世界を構築する上で、ある程度の材料は使わなければいけないし、そこにリアリティを求めるのに必要な作業だったと思う。被災者の皆さんや、石井さんの取材を受けた皆さんは、この場所は実際にはこうだった、わたしたちの経験ではこうだったと、書かれていないところまで読み込むことができる特別な読者たちで、言ってみれば"表現の向こう側"から作品を読むことができると思う。一方、大多数の一般の読者が読んだ時、どこまでが特権的な、非常に重い意味を担った言葉で、どこからが北条さんが思いついた言葉なのかを区別するのはとても難しい。今回は、そのあたりの難しさがあると思う。しかし、すでに小説は書かれてしまっているので、書き直ししか無いし、その上でもう一度評価しなおすということはあり得るが、"もし借用がなければどうだったか"という質問には答えることができない」とした。
よしもと新喜劇の小籔千豊は日比准教授の話を受け「M-1で1年目の子が優勝した、実力があって間もテンポもすごい、めちゃめちゃ面白いと思ったら、4分の間に何箇所かパクりがあった。パクらんでもウケたのにと思った。でも、そのネタを抜いたら話が変わってくるし、流れがあるからその部分を抜くことはできない。腕前はすごいが、こういうことになって悲しい、ということだと思う」とお笑いの審査員に喩えた。
その上で日比准教授は「表現を引き写してそのまま書いてしまったことについては言い訳不能だと思う。書かれた言葉や伝えられた言葉には、それを苦労して紡ぎ出した人がいる。その苦労を横から軽い気持ちでかすめ取るようなことはやってはいけない。この小説は、被災者の経験を集める中で、それを掘り下げていこうとする方向の作品だと思う。そこで一個一個の表現が持っている強さみたいなものに安易に寄りかかっていたとしたら批判されても仕方がないし、残念だ」と話し、「芥川賞を取るのは難しいのではないか。ここで与えればものすごく話題にはなるが、そんなことは出来ない状況ではないか」との見方を示した。
■"参考文献"ノンフィクションを執筆した立場からは
宮城県・石巻市での記録をまとめた『ふたたび、ここから』の著者・池上正樹さんも、"モチーフを盗られた"と感じている。「『美しい顔』の根幹の部分になっている、情報格差やメディアへの怒りは、やはり震災直後の被災地で、被災者たちから託されてきた言葉だったり、情報だったりするわけで。たくさんの命が亡くなっているし、まだ終わっていない人たちがたくさんいる中で、小説とはいえ、取材しないでああいう形で作品にしたのは理解しがたい」。
70人以上の被災者の手記をまとめた『3.11 慟哭の記録』も、北条さんに無断で"参考文献"として作品を使われた。編者である金菱清・東北学院大学教授は、今回の問題について「表現の類似性ではなく、文学の本質性が問われている」と話す。
「僕の本自体は500ページを超える大著ですから、それを探すことは至難の技なんですけど、すぐに分かったことは、新聞、テレビで検証されているような一字一句にわたるような微細な事ではなくて、言葉が紡ぎだした土台となるような震災体験、そのものをモチーフに掠め取ったという印象を持ちました」。
金菱教授は、フィクションである小説の役割を認めた上で、今回の作品が北条さん自身の葛藤を描いただけで被災者の声を代弁したものではないと批判している。さらに、講談社が今月3日、参考文献の未記載について謝罪した一方、類似表現は作品の根底に関わるものではないなどと主張したことに対しても「文学性の意味において、被災者の記録は些細なことなんだ、みたいな講談社側の見解というものが示されたわけで、そこはやっぱり違うんじゃないか」と違和感を口にした。
また、金菱教授はジャーナリストの石戸諭氏の取材に「北条さんは被災地に一回も足を運んでおらず、作品を支持する人たちは、作家の想像力によって生まれた文学的価値を強く評価している。しかし、小説は想像力で書かれたのではなく、彼らの言葉を奪うことで書かれたものでした」と指摘している。
石戸氏は「被災地に行ったことがないから書いちゃいけないんだとか、当事者の話を聞かないと書いちゃいけないということを言う人もいるが、そうは思わないし、当事者でなくても書くべきだ。また、被災者が書いちゃいけないと言っていても、それでも書かなきゃいけないこともある。私も被災地を取材して、"書いていいのだろうか"と葛藤を抱えてしまった経験もある。だから記事を書くにしても一つ一つ許諾を得たし、それを本にするに当たっても、どこをどう加筆します、そしてどういう本にしますということをご説明した。それは当然やるべきことだった思う。北条さんは、被災地に行っていないということを強調しすぎたがために、じゃあディティールはどこから取ったんだ、という話になった。結局は他から取っていたのに、そのことを一言も言わなかったのは落ち度だと思う」と指摘する。
「一番のポイントは、小説の中で北条さんは震災についてどこまで描きたかったのかよくわからない。金菱さんには北条さんから、お詫びの手紙が届いたというが、その中で北条さんは"自己の内面をもう一度見たかった"と言っている。つまり、自分の内面を描くために、被災者の人達の言葉を使ったということになる。それは被災された方々の気持ちを"ネタ"として使いましたと言っているようなものだし、その批判は免れないと思う。書く以上は、なおそれでも評価されるような作品を書くべきだった」。
その上で石戸氏は文学とノンフィクションの相違点も踏まえ、「小説が持つ一番の力は、フィクションを通じて物事の本質に迫っていく所にあると思う。その観点で見ると、この小説は本質に迫りきれていないだろうと評価している。文学的な価値を議論されるのもわかるが、筋を通していなかったという点も含めて、ただネタにしたのではないかということは問われてしかるべきだと思う。今回の小説は、あまりにも他の作品のいろんなものに頼りすぎていた。もう少し別のやり方で、緻密に世界を再構築することもできたと思う。その意味で、これで芥川賞をあげるのは違うだろうと、強く思う」と訴えた。
現時点で、参考文献に使われた作品への対応について、北条さん・講談社側と著者たちの間では決着を見ていない。『遺体』を出版した新潮社は「参考文献として記載すれば済む問題ではない」として、類似箇所の一部を修正することなどを求めている。
芥川賞候補作をめぐる前代未聞の騒動。運命の選考会はきょう夕方から始まる。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)