当時14歳(中学2年生)だった息子を自死で亡くした枡さん(仮名)。まだ一周忌も迎えていないが(※番組収録時)「自死遺族としての思いを伝える機会があるならば」と番組への出演を決意してくれた。
SHELLYがMCを務める『Wの悲喜劇 ~日本一過激なオンナのニュース~』(AbemaTV/アベマTV※毎週土曜21時から放送中)は、今回『差別される自死遺族』がテーマ。大切な人を自死で失った当事者らがゲストとして招かれ、胸中に残る悲しみや、自死遺族として経験した苦しみを打ち明けた。
【映像】「この世とあの世にもし境目があるなら…」母を失った悲しみ、自死遺族支援のあり方
「学校から帰ってくると様子がおかしいことが多かった」。枡さんの息子が自死を遂げる前月、落ち込みが激しい息子の姿を目にしていた。毎日一緒にいる実母だから分かるというだけではなく、「死」という言葉を使って、息子がサインを出してきたこともあった。
自死の原因はいじめだったが怪我が残るようないじめではなく、枡さんの息子は「言葉に傷つく」と言っていた。「大丈夫だよ。そんなに気にすることないよ」と息子を励ましていだが、それが「かえって息子を追い詰めることに繋がってしまっていたのではないか」と、今では自責の念に苛まれている。
「まさかあの日にお別れになるとは思いもしなかった」と振り返る枡さん。土曜日、部活から帰宅後、枡さんの息子は自死を遂げた。枡さんは仕事に出ており、第一発見者は夫だった。
枡さんの職場に電話があり、夫は自死のことを伏せ「とにかく病院に来て」と言ってきた。枡さんが病院に到着したとき、息子の心臓はまだ動いていた。「息子はきっと助かる」と信じて病院の廊下で待っていた枡さん。「何が起きたのか分からなくて。分からないまま、息が止まって、霊安室に行って……」と、枡さんはその日のことを涙ながらに振り返る。
最初は、家族葬で静かに息子を見送ろうと考えていた。すると、葬儀社のスタッフからこう言われた。
「周りに隠すように見送って、息子が生きているかのように振る舞っていると、周りとの何気ない会話で子どもの話が出たとき、フラッシュバックが起きて何度もつらくなる」
葬儀社のスタッフも実子を病気で亡くしていた。その言葉を聞いた枡さんは、考えを変え、みんなで見送る葬式を執り行った。
葬式後の生活について、枡さんは「日常の生活がとても残酷」と語る。葬式が終わるまでは忙しい。しかし、いざ家に戻ると、朝に息子が起きてくることはない。夕方になっても、学校からは帰ってこない。
現実に直面し「どうして亡くなってしまったんだろう」「何がダメだったんだろう」「どうすればこういう結果にならなかったんだろう」と、悩み続ける毎日が続く。
枡さんが救いを求め、インターネットを検索しているとき、自死遺族を支援する一般社団法人・全国自死遺族連絡会の存在を知った。同団体の代表理事である田中幸子さんに出会い、もし田中さんに出会えていなければ「お母さんもすぐに行くから待ってなさい」と、きっと息子の元へ行っていたと枡さんは明かす。
自死遺族をサポートし続ける田中さんも過去に当時34歳だった長男を自死で亡くしており、ひとりの自死遺族として苦しみ抜いてきた。枡さんの一言では語れない母の気持ちを、田中さんは受け止めてくれたという。
■学校関係者の心ない言葉「マスコミの人が来ますけど、どうしますか?」
学校関係者から枡さんへまず投げかけられたのは、息子の死を悔やむような言葉ではなく「マスコミの人が来ますけど、どうしますか?」という心ない言葉だった。息子の死を受け止めるだけで精一杯だった枡さんは、どうすればいいのか分からなかった。学校との話し合いは現在も進行中で、すべて田中さんが窓口になり、全面的にサポートをしている。
田中さんは枡さんに「インターネットを一切見ないで」とアドバイスした。いじめの調査委員会を開くとなるとマスコミにも取り上げられるようになり、もちろん味方になってくれる人も多いが、深い事情を知らないにもかかわらず、誹謗中傷を行う人間が存在するからだ。田中さんは「学校を訴えて金でも欲しいのか?」「お前の子どものほうが悪いんだろう」といった書き込みも「多数見てきた」と話す。
田中さんの長男は宮城県警で警察官をしていて、事故処理担当係長だった。多数の怪我人を出し、高校生が犠牲となった飲酒運転の大事故を担当していた。睡眠もロクに取らずに毎日働き続けただけではなく、職場ではパワハラまでもあったという。
パトカーの音を聞くと飛び起きるようになってしまい、精神科にも通い始めた長男に田中さんは休暇を取らせたが、その休暇中に自死を選んでしまった。
長男は結婚していて子どももいた。田中さんはサポートの方針を長男の妻と綿密に相談し続けていた。しかし、その努力も虚しく、精神科に通い始めて1カ月半が経った頃、宿舎で亡くなっているのが発見された。
「息子は警察官だったから、自死の現場をたくさん見てるし、残された遺族の悲しみや苦しみをよく語ってくれていた。まさかその息子が……」
田中さんは息子の後を追おうと、自殺未遂も2回経験。仕事を辞めて引きこもり状態になり、ありとあらゆるところに電話をかけ、助けを求めたという。しかし、現実は「誰も助けてくれない。ほとんどたらい回し。お話は聞いてくれますけど、それだけで終わり」だった。
「占いも山ほど行きました。50何カ所くらい」と、自身の行動を振り返る田中さん。「この苦しみがいつまで続くのか?」という葛藤に苛まれ続ける毎日だった。
当時、自死遺族同士で集まって悲しみや苦しみを共有できるような機会は、極めて限られていた。もともと支援団体がある地域もあったが、飲まず食わずの生活で痩せ細っていた田中さんにとっては、全て遠すぎる場所であった。
息子の自死による壮絶な苦しみを経験した田中さんは「同じ思いをしている人に会いたい」と、強い気持ちを持つように。行政にも働きかけ、2008年に一般社団法人・全国自死遺族連絡会を設立した。現在、同団体は「自死遺族による自死遺族のためのネットワーク」として、現在は登録者である約3000人の自死遺族を支援している。
「(長男と)もっとスキンシップを取っておけばよかった。もっと愛情を伝えるべきだった。あなたは大切な人だということを伝えるのが日本人は下手な気がしますが、ハグとかしてもよかった」
「(愛情を)伝えてダメなんてことはない。(家族や大切な人が)ちょっと変だなと思ったら大げさでもいい。とにかく何事も無いに越したことはないから。命はあっという間に消えます」
田中さんは、たとえお節介だとしても、大切な人を守るために愛情を伝える重要性を今も訴えている。
(AbemaTV/「Wの悲喜劇 ~日本一過激なオンナのニュース~」より)