15日深夜、『カンニング竹山の土曜The NIGHT』(ABEMA)が放送され、俳優の宝田明が、第二次世界大戦終戦後の満州におけるつらい体験を語った。
この日は「8/15終戦記念日 特別企画 宝田明(86)壮絶戦闘体験」と題して、俳優の宝田をゲストに招き、戦争時代のエピソードを聞いた。
宝田は当時、満州国に住んでいた。終戦後、満州国の病院や学校はすべてソ連軍に接収され、宝田は小学校5年生の8月からおよそ1年半、学校に通うことはできなかったそう。
するとソ連軍は「強制使役に出てこい」と、一家のうちから1人ずつ労働者を差し出すように告げてきたとのこと。宝田の兄2人はすでに兵隊にとられており、残った兄と父、宝田の3人で日替わりで、ソ連軍のトラックに載せられ、強制使役に従事したという。
▶映像:「強制使役」でソ連軍からくすねた石炭の使い道とは?(40分頃~)
宝田少年が連れていかれた先は石炭の山で、近づけると「顔が映るくらいツルツル」な上質の満州の石炭をソ連に輸送するために大人に混じって、遠く離れた貨物列車まで運ぶ作業をさせられたそう。
昼食は家から持参したが、宝田は母に「もっと大きい弁当箱にして」とリクエスト。宝田は弁当を食べるとソ連兵の目を盗んで、石炭を弁当箱に入れて持ち帰ろうとしたのだとか。
アルマイト製の弁当箱に石炭を詰め、雑嚢(ざつのう)に入れたところ、頭に「コーン!」と叩かれる衝撃が。その後罵声を浴びせられると、足元に何発もピストルを撃たれたことを明かした。
しかし宝田は諦めずに、次の強制使役のときに石炭を持ち帰ることに成功。その後は失敗することなく何度も石炭を持ち帰ったという。持ち帰った石炭の用途について宝田は「我が家の暖房ですよ、ペチカ(ロシアの暖炉兼オーブン)にくべるやつ」と、家族のために使ったことを明かした。
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