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■6000人が集まる「ホームパーティー」

 オレゴン州知事の経済顧問を務め、ニューズウィーク日本版『世界で最も尊敬される日本人100人』(2005年度)に選ばれた男がいる。カウボーイハットがトレードマークの吉田潤喜氏、Yoshida Group会長兼CEOだ。

 吉田は「たった1本のソース」、しかしアメリカでは知らぬ者はいないと言われる「ヨシダソース」だけで成り上がった。

 33年前にアメリカで発売された「ヨシダソース」は、当時のアメリカ人が知らなかった甘辛い味のタレが武器。今では一日平均7万本が生産され、14カ国以上で販売されている。今ではソースだけではなく幅広く事業を展開、グループ会社18社を合わせると年商は250億円にものぼる。ソース販売以外に、物流業でも大成功を収めている。ナイキと提携し、エアソール部分の輸送の独占契約を締結、年間2億足分のエアソールを輸送している。

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 ヨシダソースが爆発的に売れるようになったのは、小売王者のコストコとの提携がきっかけだが、発売当初は自ら小さなスーパーの店頭に立ち、奇抜なパフォーマンスで目立ち、売上を着実に伸ばしてきた。テレビCMにも出演、とにかくソースを売りまくった。

 今ではオレゴン州ポートランドに2万5000坪、東京ドームがすっぽりと入る大きさの敷地を持つ大豪邸に住む。そこで年に一度開催される「ホームパーティー」には6000人が集まるというから驚きだ。

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 「ビジネスで成功したいなら恥を捨てろ。100%以外は全部0だ。アメリカでは99%も0%も一緒」と言い切るほど、徹底した経営哲学を持つ吉田。だが、もともとは京都出身の"やんちゃ坊主"。19歳の時、不退転の覚悟でアメリカに渡り、空手道場で生計を立てていた。それがなぜソース販売で大成功を収めるまでに至ったのか。ずばり「KARATE MUSICAL『SAUCE』」という名前で舞台化されたほど波瀾万丈な吉田のライフストーリーとは。

■壮絶ないじめ、19歳で渡米

 1949年生まれの吉田に最初の転機が訪れたのは4歳の頃。目に針が刺さってしまい、片目を失明してしまった。それから壮絶ないじめに遭う。

 「いじめに遭うと負のエネルギーがたまる。もしかしたらそれで相手を殺したり、逆に自殺したりしてしまうかもしれない。でもね、それをポジティブエネルギーに変えるの。『今に見とれ!』っていう気持ちに。それが人間の生きる秘訣」。

 強くなるために空手を習い始めるも、喧嘩に明け暮れる日々が続き、いつしか京都では有名な「ごんたくれ(不良)」になっていた。「喧嘩は勝たないといかん。商売も同じ。嫁はんには負けなあかんな(笑)。『こんちくしょう』っていうのが僕の生き方」と豪快に笑う。

 当時の吉田を知るのが姉の太田紅后さん。「喧嘩ばっかりしとったけど、弱いもんいじめじゃない。やっぱり自分の嫌なことを言われる痛さを知っている。優しい子」と、ただの"ごんたくれ"とは異なる一面を明かす。

 大学受験に失敗した吉田は、19歳で渡米を決意する。手にしていたのは、母親が自分の稼ぎの中から持たせてくれた、アメリカの往復航空券と現金500ドルのみ。日本には二度と戻らない決意だった。

 「(高校時代)校門並ばされて、先生がポケットの中いじってね。『タバコのクズがある』とか言われて。他にも6月1日には一斉に衣替え。日本の校風が合わなくて。前世は遊牧民やったんやと思います」。

 アメリカに着いた吉田は、すぐにシアトルのチャイナタウンを訪れる。帰りの航空券を現金にするためだ。そうやって退路を断ち、工面した730ドルで車を購入、車内で寝泊まりする生活が始まった。「当時はそんなもんでした」とあっけらかんと言ってのけるが、就労ビザも無ければ車の免許証もなかった。

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 皿洗いなどのアルバイトをして食いつなぐ日々。ある日のこと、移民局に目をつけられ、吉田を連行するために大男たちがレストランの裏口から踏み込んできた。「レストランのテーブルをバーって乗り越えてね。表に走って出たんですわ。そしたら表にも大男たちがいて。そのまま連行されて」。

 だが、連行された移民局には、渡米当初から永住権を求めて通っていたことで顔なじみになったスタッフがいた。彼女に救われ、なんとその場で放免された。

 「僕って守られてるんです。前世から。徳の高いお坊さんに言われたんですわ。前世からの輪廻が続いていて、ずーっと守ってくれてるって。まぁワシ、クリスチャンやけどな(笑)」。

 アメリカで培った鋭敏なビジネスセンスと、コテコテの関西のノリが同居しているのが「吉田らしさ」なのかもしれない。

■実家の焼肉屋のタレを自作したことが「ヨシダソース」のきっかけ

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 その後、糊口をしのぐ日々を送る吉田に大きなチャンスが訪れる。「大学で空手を教えてほしい」という依頼が舞い込んできたのだ。当時はブルース・リーが大流行、空前の"空手ブーム"が巻き起こっていた。大学で空手を教えることで、学生ビザの取得もできる。ついに"不法労働者"からの脱出に成功した。勢いに乗って、1971年には空手道場を開設、最盛期には200人もの生徒を抱えるまでになった。その腕前が評価され、ワシントン州の警察学校での指導を依頼され、空手を応用し考案した「吉田逮捕術」は、はSWATチームの教官の必修科目になった。

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 だが、それも束の間。不況の余波で空手道場は再び暇になってしまった。そんな吉田がソースと出会ったのが1981年のクリスマス。空手道場の生徒からもらったクリスマスプレゼントにお返しするものが何もない。そこで実家の焼肉屋のタレを自作して振る舞った。これが生徒に好評で、中には「金を払ってでもほしい」という声もあったという。

 「『ハニー、これは商売になるわ』って妻のリンダに言われてね。そしたらやってみようかと」。

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 しかし、道のりは平坦ではなかった。「ここからが地獄の一丁目ですわ」と吉田。その言葉通り、そう単純ではなかった。吉田は、いかにしてソースをコストコと提携、1日7万本も生産する巨大ビジネスに育て上げていくのか。(後編に続く・AbemaTV/「創業バカ一代より」)

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