22日のABEMA『NewsBAR橋下』にフリーアナウンサーの石井亮次がゲスト生出演。司会を務める『ゴゴスマ』のエピソードなどを、番組で共演する機会もある橋下徹氏と語り合った。
大阪府東大阪市で生まれた石井アナ。同志社大学を卒業後、2000年に名古屋のCBCテレビにアナウンサーとして入社。2013年、情報番組「ゴゴスマ」の番組開始時から司会を務め、去年、CBCテレビを退社してフリーに転身した。
2019年の週刊文春の好きなアナウンサー企画では在京キー局のアナウンサーに混じって5位を獲得するなど、いま最も注目されるアナウンサーの一人だ。
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■就職留年、家業を継ごうか悩んだことも
「『ゴゴスマ』は、最初は東海地方(愛知、岐阜、三重)のみの放送だった。それが2年が経った2015年の4月、関東1都6県でも放送するよという。名古屋の局の生番組が1都6県で映る、こんなことあり得ない。聞いたことがない。スタッフはとしては、名古屋のお料理とか、百貨店の物産展の中継とかをやっていたから、そういうのが東京で映って、視聴率は大丈夫かという、ドキドキもちょっとあった。
でも、出る側の僕としてはおいしい、おいしい。いよいよ俺の人生変わるなと思った(笑)。だってTBSでは書類選考で落ちているから。大阪中央郵便局で封筒に履歴書を入れて、そこで終わり。新幹線にすら乗っていないんだから。東京だけじゃなくて、大阪、名古屋でも落ちて、就職留年もしているから。
そもそもアナウンサーを目指そうと思ったのは、当時付き合っていた彼女が“私、昨日フジテレビに行ってきた。アナウンサーの試験を受けてきた”と言ったこと。“僕も小学校3年生の時にタイガースが優勝して、実況をしていたアナウンサーに憧れたよ。モノマネして人気者になったよ。俺がアナウンサーになりたいよ”と、急遽マニュアルを買って、スーツを買って、就職活動を始めた。思いつきで始めた割には、大阪の毎日放送(MBS)で20人ぐらいのところまで残ったし、名古屋でも名古屋テレビ(メ~テレ、NBN)で最後の3人まで残った。途中から、絶対にアナウンサーになりたいと思うようになったり、“あと1年頑張れば”という欲が出た」。
それでも家業のガソリンスタンドを継ごうか、真剣に悩んだ時期もあったという。
「兄貴に“どうしたらいい?”と聞いたら、“就職留年という手があるやないか。もう1年頑張ってやったらええやん”と言われた。そこで改めて勉強を始めて。大阪・梅田のMBSの裏手に『早稲田セミナー』というのがあって、そこで6カ月間、週1で24回くらいのコースに通った。もちろん“あ・い・う・え・お”とかもやるが、一番役に立ったのは、仲間との面接の練習。今日は僕が面接官で、君が生徒だと。そうすると、こういう面接が良いんだ、悪いんだというのが分かってきて、面接がうまいことトントントンと進むようになった。
それでも東京では落ちて、大阪もABC(朝日放送)は最終面接の3人まで行ったけど落ちた。名古屋のCBCに拾ってもらったが、2、30人のクラスの中で、決まったのは僕ともう一人だけだった。当時はまだ“アナウンサー人気”があって、キー局の女性の場合、2万人は受けていたので、僕の前後で言えば、高島彩さんは2万人に1人の逸材ということになる。男性の場合、キー局は2000人、大阪で1000人、名古屋で500人、みたいな感じだった。でも今はアナウンサーもなり手が少なくなってきている。特に男の子で“アナウンサーになりたい”という人があんまりいなくなってきた。
もともとはガソリンスタンドを継ごうと思っていたし、高校1年からアルバイトをして、危険物取扱者の免許も取っていた。その経験は番組でも活きている。こうして橋下さんみたいな“危険物”を取り扱えるから(笑)」。
すると橋下氏は「うまいことを言うね。(笑)」と感心。その上で、「アナウンサーと司会者とでは、ちょっと仕事の中身が違うでしょ」と質問。
石井アナは「おっしゃるように、アナウンサーはニュースの原稿を綺麗に読むのが第一義。僕も2013年からは『ゴゴスマ』で司会として、初めて真ん中のポジションでやらせてもらっているが。はっきりいって、今も訳が分からないままやっている。それもあって、朝の7時半には局に入るようにしている。
本番が始まるまで6時間半あるが、その間、ずっと勉強だ。橋下さんも含め、コメンテーターの皆さんは知識が豊富なので、負けないように新聞を全て読む。あとは取材、調べ物。それでやっと追いつける状況の毎日だ。発言に誤りがあれば訂正もしないといけないし、どっちかに偏ったらバランスを取らなければならない。そのためには、ある程度のことは知っておかないといけない」。
橋下氏は「僕の場合はしょっちゅう“介入”されますから。バランス悪いから。石井さんにも、“シーソーを戻しに来たな”と思うことがある(笑)」。
これに石井アナは「毎回だ(笑)。はっきり言って、一番困るゲストだし(笑)、僕は“橋下疲れ”と呼んでいる(笑)。火曜日に橋下さんがゲストだと、なぜか水・木・金とメチャクチャしんどい。でも、それが面白いし、有り難い。打ち合わせルームでも、楽しくやろうと思ってギャグを言うが、いつも同じスタッフなので誰一人笑わない(笑)。でも1時55分になれば、プロのコメンテーターの皆さんが僕の話を聞いてくれるし、僕にツッコんでくれる。そして、その様子をたくさんの視聴者の方が見てくれる。24時間のうち、あの2時間の生放送中が一番幸せだ。本当に“生きている”と思う」。
■宮根さんはメチャクチャ尊敬。坂上さんは勇気、男気がある
また、裏番組についても必ずチェックしているという石井アナ。
「毎日、録画を見ている。だって時間も環境も同じだし、大変いい教材になる。特に宮根誠司さんのことはメチャクチャ尊敬している。そのせいか、『ゴゴスマ』は音声だけだと『ミヤネ屋』かと思ったというのはよく言われ、石井は“ジェネリック宮根”“小宮根”と書かれることもある(笑)。実際、宮根さんのことは研究しているし、だから中継でもたまに“中山さん”と、ミヤネ屋のレポーターと間違いそうになることもある(笑)。でも、宮根さんとは同じ午後2時台、3時台を盛り上げていきたい。
一方で、坂上さんは勇気、男気があると思っている。僕は時代に合った司会者にならないと、と思っていて、例えば批判よりも提案、嘆きよりもユーモア、やさしさみたいな感じだ。でも、坂上さんはそんなことお構いなし。橋下さんもどちらかというとそういうタイプで、時代がなんだ、俺は俺なんだと。それはかっこいいと思う」。
これに橋下氏は「コメンテーターだったら、それはできますけど、坂上さんの立場であそこまで言い切るのは、当然批判も出るが、賛成もある。司会者のスタイルとして画期的なんじゃないですか。」と賛同。
石井アナは「僕の場合、それが本当にない。全くのニュートラル。ノンポリシーで、皆さんにしゃべっていただいて、70分過ぎていけばいいなというのがある。そこは商売人の息子だからということもあるかもしれない。6年前に亡くなった親父は“お前、あいさつは早いもの勝ちだ。謝るのはタダだ”と、名言をくれた。会社でも、“嫌な人だな”と思ったからといって、邪険しない方が良い。数年後に一緒に仕事をすることになって、“あの時に邪険にしなくて良かった”と思うことが実際にあるからだ。ある意味で、いやらしい性格かもしれない(笑)」。
そんな石井アナがフリーになったのは去年3月のこと。
「2018年1月に、今お世話になっている事務所の方から急に電話がかかってきて、“1回、名古屋でお話ししませんか”と。行きますと。名古屋の個室居酒屋で、今のチーフマネージャーさんが差し向かいで“石井さん、フリーになる気はありませんか”と。“持ち帰ります”と言って、家で妻に“こんなこと言われたけど、どうしたらいい?”と聞いたら“やりたいんやろ。やったらええやん”と。“大丈夫かな、生活?”と言ったら、“大丈夫だよ、あんたなら”と。その気になって、電話で“やります”と。“ただ、『ゴゴスマ』は続けたい”と言ったら、“『ゴゴスマ』は続けながらフリーになれば、『ゴゴスマ』のPRにもなるじゃないか。みんながニッコリになれるんじゃないか”というアイデアをいただいた」と明かしていた。(ABEMA/『NewsBAR橋下』より)