平野綾、『涼宮ハルヒ』でブレイクも「辞めて裏方に回ろうと」
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 社会現象にもなったアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』で涼宮ハルヒの声優を務めた、平野綾(34)。近年では、ミュージカル女優として目覚ましい活躍を見せ数多くの舞台に出演している。2022年8月末には、10年以上所属した事務所から独立。新たな1歩を踏み出した。子役から始まり、まもなく芸能活動25年を迎える平野さんが直筆の折れ線グラフをもとに歩んできた人生を語る。

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平野綾、『涼宮ハルヒ』でブレイクも「辞めて裏方に回ろうと」
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「1番最初の点が2歳とか3歳。父の仕事の関係でニューヨークに住んでいたことがあって、人生で1番最初に見た舞台がブロードウェイの作品で、その時『ピーターパン』を見たんです。私の中で本当に“きらびやかな世界”で、自分もやってみたいと思ったショーを見たのが、私がこの世界に興味を持った1番最初のきっかけです。小学校に入ったくらいで、当時、私は学校がものすごく嫌いで本当におとなしい子どもだったので、全然友達も自分から作れないし輪の中に入っていけないし、結構いじめられたりもしていたんです。だから私はこの暗黒小学生時代と、8歳の時にアマチュアではあるんですけれど、初めて区民ミュージカルの舞台に立たせていただいて、自分から『やりたい』と言ってオーディションに行って受かって、そこから一気に道が開けたかなと思います。その後、10歳の時はじめて児童劇団に入りました。父も母も(芸能界は)とても厳しい世界なので簡単には『うん』とは言ってくれなくて、『一生の仕事になるように決意して始めなさい』と言われました。なので、私も家族会議で『わかりました。一生の仕事にします』と言って、劇団に入ることを許してもらえたんです」

 そんな平野に転機が訪れたのは13歳の時。日本映画界の巨匠が発した一言で運命が変わる。

「13歳の時にドラマをやって、そのドラマで初めてエキストラではなく名前付きの役をいただきました。そのドラマが本当に不思議なドラマで、主題歌も歌わせてもらったり、たまにアニメパートが出てきてそこに自分の声を当てるとか。その時の監督が三池崇史監督なんですけれど、語り口調が面白いねって言われて、それを聞いた当時のマネジャーがちょっと声も変わっているし、アニメの仕事のオーディション受けてみる?って言ってくれました。それで受かって、それがデビュー作です。14歳で声優デビューしました。プロの声優さんたちの中に急にぼんっと入れられて、『はい、じゃあマイク前でお芝居して』という状況だったんです。右も左もわからないし、マイク前で台本どうやって持ったらいいのかわからない。先輩方の様子を見て盗んで、自分で発見しながら現場に行く。本当に自分が声優としてアニメのアフレコできると思っていなかったので、最初はびっくりしました。(声優デビュー前は)一生に1回アニメの仕事してみたいなぐらいに思っていたんですけれど、まさかここでデビューしてからこんなにたくさんの作品に関わらせていただけるとは思わなかったです」

 声優デビューをしたのち、当時の事務所の意向でアイドル活動にも挑戦。しかし、慣れないダンスとトークに苦戦。そして、アイドル活動の2年後、平野は大きな転機を迎える。

「アイドル生活で下がって、急に上がるんですけれど、そのタイミングが『涼宮ハルヒの憂鬱』です。完全にこれで人生が変わったなって思います。ハルヒがなかったら今の私はいないなと本当に思う大事な作品、大事な役です。自分の中でこの役に出会えたのはとても大きかったんですけれど…その後、すごく下がってるのは、睡眠時間もほとんどなく、ご飯食べる時間も移動時間もずっと仕事をやってみたいな状態がそこから何年も続いて、お芝居がしたいはずなのにそれにうまく時間を費やせないというか。自分の心に余裕がないと表現ってできないと思うんですけれど、それが一切ない状態でインプットができず、アウトプットばかりの生活をおくることになって、お仕事をいっぱいいただける反面、すごく苦しかったです。実は、大学に入った時に、一瞬この業界やめようと思ったんです。芸術学部の専攻で入学して、裏方ができるように映像とかのほうに進んだんです。これは、今まであまり言ってないんですけれど。お芝居する方じゃなくて完全に裏でCG時作ったりとか、音楽を作るパソコン作業の方の学科を専攻して。どういう状況であれ、この世界に自分が関われていれば幸せかもと、大変だった時はそういう思いもありました。20歳過ぎて、本当にマックスで忙しい時とかに、その話を家族でしたことがあって、『あの時の約束は今もずっと守っているのはもちろん分かっているし、今まで頑張ってきたのはもちろん分かっているけれど、本当に自分が無理だと思ったら、それを最後まで守らないで、自分のことをまず第一に考えなさいよ』と言われました。

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「それが変わるのが、ミュージカルに出ることができた23歳の時。人生2番目の変わったタイミングはこの辺かな。一日中お稽古しなきゃいけなくて、渡さなきゃいけなかったりとかするので、今までみたいなアニメの仕事をたくさんするっていうのはできないっていう環境になって、声優として舞台をやるのか、ちゃんと舞台にどっぷり浸かってやるのかどっちかだと思ったので、私は舞台を本当に真剣にやっている方たちに足手まといだと思われないように、舞台人として見てもらえるように仕事したいなと思って、舞台の世界に足を踏み入れたスタートのタイミングが23歳でした。そこからが本当の試練でした」

 23歳で念願の舞台デビューを果たした平野。そこでまた壁にぶつかる。

「児童劇団の以来ちゃんとミュージカルのレッスンをしていなくて、アイドルの時はポップスの歌唱レッスンがあったりダンスのレッスンがあったり、声優が忙しくなってからもそんなレッスンを受けることができなくて、時間がなくていう中でそこで乗り込んでいって、自分の実力があまりにも伴っていないことがはっきり分かりました。これじゃだめだと思って、その後にまた受けたオーディションで、初めてミュージカルで主演をやらせていただく作品が『レディ・ベス』です。力不足で本当に悔しかったです。それまでのその準備不足と時間のなさでもう本当に悔しかった。『まだ声優さんね』っていう風に見られちゃったり、まだ新人だから許されるビギナーズラックで許されている感じというのが、まだあった時だったので。後はプライベートなことで言うと(レディ・ベスの)本番中に1番の理解者であった父が亡くなってしまったというのはすごく大きくて、もう泣いちゃって歌えない時もあって。1番の見本が父親だったので、父の背中を見て育って、私の仕事の仕方だったり、その仕事に対しての思いみたいなのも、全部父を参考に、目標にしていた部分が強かったので。ここから巻き返してやろうと思って頑張るきっかけになりました。それで、色々学びなおそうと思って留学を決意しました。父は海外との架け橋になるようなお仕事をしていたので、父が生きている時に私がパフォーマンスする方の立場として、そういうお仕事ができるように頑張ると約束していたんですね。単身ニューヨークになんのツテもないまま、とりあえず行ってみようと思いました」

 語学学校と歌を中心としたレッスンに通ったというニューヨーク留学。そこで、いまの平野を支える大切な言葉と出会ったという。

「海外では一緒にメンタルも鍛えていくので、『30になるまでになんとかしなきゃ』と焦っていたんですけれど、向こうに行って先生に『30歳が生まれたてだと思いなさい』と言われたんです。だから30歳が0歳だと思ってそこから生まれ直すために、『30歳になるまでに何をしてきたかが重要だよ』と言われたんです。他の人には経験できないことを今まで経験してきて、あなたの中でこんなに素晴らしい経験があるじゃないかと、今までの紆余曲折があった辛かったこと、しんどかったこと、逆にものすごく幸せを感じたことも全部ひっくるめて『ここからのためにあるんだ』『ここから私が人としてなにかを表現するために経験してきた大事なことたちだったんだ』と思えるようになって、『自分が自分でいて良いんだ』と思えるようになりました。今までいじめにあって、実はものすごく根暗で引っ込み思案の子どもでというところも含め、全部自分なんだ平野綾としての“在り方”がわかったというのが、留学して実は一番得た人としてどうするかという部分でした。本当にかけがえのない経験をしたなと思います。私的には常に今が一番幸せと思っているので思っているし、思っていたいので、だから1番てっぺんを今しています。なんだかんだ今が一番幸せです」

(『ABEMA NEWS』より)

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