「生きていくために(海外に)行った感じです。生計を立てなければいけないので。本当に居場所を探してというか」
今から9年前。芸能マスコミに追われる日々の中、表舞台から忽然と姿を消した、モデルで女優の美元(みおん・43)。日本を離れ、異国の地で生活することを決断。その背景には、人生の大きな選択が隠されていた。さらに、家族への思いがもたらした運命的な出来事も。
美元が“空白の9年”を『ABEMAエンタメ』に独占激白した。
「日本で取材を受けるのは10年ぶりとか」
緊張した様子を感じさせず、穏やかな笑顔を見せながらカメラの前に姿を現した美元。今年8月、10年ぶりに日本の芸能事務所と契約を結び、芸能活動を再開。11月に自身のSNSで公表すると、たちまちネットニュースで話題になった。
日本のメディアの取材に応じるのは、今回が活動再開後、初めて。
「芸能活動という言葉に少し照れてしまうというか。当時、自分がまだ夢を追いかけている途中っていう意識だったので、芸能人だったっていう自覚が正直あまりないんですね。再開とか復帰とかっていうと、ちょっと自分ではピンとこないのと。ただ、娘が少し大きくなって、私がこういう活動してたってことを話すと、『ママのお芝居見たい』って言ってくれるようになって。それが本当に嬉しくて、もう一度夢を追いかけるというか、諦めないでもう1回やりたいなって思った感じです」
美元が芸能界に入ったキッカケは、2000年に行われた「ミス・ユニバース・ジャパン」。準グランプリを受賞し、モデルとしての活動をスタートさせた。身長175センチというスタイルを武器に、国内だけでなく世界で活躍するモデルへと成長。人気ファッション誌『VOGUE』や、高級ブランド「シャネル」のモデルに起用された。
モデルデビューから6年後、女優業にも進出。2007年に公開された映画『M』で、映画初出演にして初主演という大役を務めた。この作品をキッカケに、「美元」という芸名での活動がスタート。精力的に活動を行っていたが、2013年3月に出演したファッションイベントを最後に、日本の芸能界から姿を消した。
「海外でもう一度お仕事をしようって思って、シンガポールを選んだ。その時の一番の理由は、深呼吸ができそうな国だなと。最初は移住とか全く考えずに、本当にお仕事をしよう、新しい生活を始めようって思い…」
新たな生活の拠点に選んだのは、多民族国家として知られるアジアの島国「シンガポール」。当初は、モデルを続けることが困難な状況もあったそうだが、撮影の仕事を通じて、人生を大きく変える“運命の出会い”が訪れた。2013年にシンガポール人の実業家と結婚したのだ。
「夫に出会って、夫の家族にもすごく早い段階で会わせていただいて。もう本当に『家族になる』って決めて移住をしたので、不安というよりは安心感の方が大きかったですね。(夫は)とにかく楽しくてものすごくたくましい人。太陽のようというか、彼がいると場が明るくなるんです。私以上に家族のことを大切にする人なので。カメラマンをやっていたこともあって、毎年『ウエディングフォトを撮りたい』ってリクエストしていて、楽しそうに付き合ってくれるのでありがたいなと思います」
大きな幸せをつかんだ美元。同年、長女・ゆうあいちゃんを出産した。
「シンガポールに行く頃に自問自答したんです。自分の人生をもう一度見つめ直した時に、1個だけ選ぼう、『お母さんになりたいな』と思って。お母さんになれたことは、私にとっては本当にもうこれで人生が花丸というか、一番欲しかったのが家族なんだなと。娘がまだ小さい時に、私のファッションショーを見に来てもらったら、突然モデルごっこをしだして。幼稚園に入ると、『ママはモデルなの。私もモデルになるの』って言い出したので、『応援するよ』って。(家族は)宝物ですね。娘のことを『宝物ちゃん』って呼んでいて、そういう歌もあるぐらいなんです」
波乱万丈の過去を乗り越え、幸せな人生を歩みだした美元。父親もシンガポールに移住し、大好きな家族との時間を最優先に過ごす中、「モデルで女優の美元」として生きる道を後押ししたのは娘の言葉だったという。
「(私が)早くに母を亡くしているので、子どもに寂しい思いをさせたくないなというのがまず一番にあって。夢は子どもが巣立ってからも追える、でも、思いがけず娘が今すごく背中を押してくれて。英語で映画のオーディションがあったんですけど、その時も1人で録音しながらセリフを録っていたら、『相手役やってあげる』って一番のサポート役になってくれていて」
2019年には、シンガポールでの呼び名である「ユウコ・チャン」として、「ミセス・シンガポール」というコンテストに挑戦。日本人初のグランプリを受賞し、シンガポール代表として世界大会へ出場した。この快挙の裏にも、愛娘の大きなサポートがあった。
「ミセス・シンガポールも、当時娘が4歳とかだったと思うんですけど、一番最初に相談したのは娘なんです。話をしてみたら、何日か経って急に『ねえママ、よく考えたんだけど絶対やったほうが良いよ』って言ってくれて。実際ミセス・シンガポールに出た時は、結構周囲の人に反対されたんです。心配してくださった部分もあって。娘の本当に純粋な応援があったから、出るってところまでいけたなと思います」
また、芸能活動を休止して以降、全く更新することのなかったSNSも再開。2021年に開設したYouTubeの公式チャンネル「ユウコチャンネル・シンガポール」では、愛娘との日常を公開している。
「この時代、芸能をやっているいないにかかわらず、SNSって誰もが携わるし、それこそ娘の世代はソーシャルネットワークに関わらず生きていくことって無理だと思うんですね。そういうSNSで子どもが将来傷つくことって絶対あると思うんです。ちょっと意地悪なコメントが来た時はあえて娘に見せていて、それに対して私がどう受け止めて、どう受け流すかを見せていて。『こういう時、私はこう思うんだよね』っていうのを娘に伝えていて、そのコメントを消すのか消さないのか、そういうのを含めて私なりの攻略法を教えるようにしています」
そして、今年2月、美元はSNSを通じて、父と娘の知られざるエピソードを綴っていた。
『【父が泣いた日】 日本で働くことが難しくなった時、仕事の糸口を探そうと海外へ。携帯が通じなかった。数日して繋がった、父からの電話。電話越しにもわかった…父が泣いていること。父が震える声で言った、「騒動で追い詰められて立つこともできなくなっていたから…命を絶つのではと思った…」。“心配しない父”だとずっと思っていたけれど、いつからか…誰よりも私のことを心配していた。そろそろ上書きしないとかな。75歳の誕生日、おめでとう、お父さん』
「本当はすごく心配をしてくれていたと思います。ただ、その心配してくれている父を私が心配していることを、夫が感じとったんでしょうね。だから、(シンガポールに)呼び寄せてくれたのかなって思います。本当に明るくて、父の口癖が『元気が1番、笑顔が2番、あとはおまけ』ってよく言っているんですけれど、本当に何を相談してもそれしか言ってくれないので。気がついたら理想のお父さんになっていたんですよね。父がどうやって私を助けようと、常に考えているのがすごく伝わってきて。私は最近、『余計な事しないでよ』って生意気言っちゃうんですけれど。今日とかも何も言っていなかったんですけど、『送っていこうか?』って言ってくれたり。娘と、ちびまる子ちゃんと友蔵さんみたいにすごく仲良くしてくれていて。今、夫と父と娘と、猫もいるんですけど、代わる代わる私のお世話をしてくれている感じがすごくして。みんなが私のことを心配してくれる、みんなが助けてくれているような感じがして、甘えさせてもらっています」
活動休止から9年…。心機一転の再出発を果たした美元には、芸能活動の新たな目標があった。
「女優としても本当に卵というか、駆け出しのままなんですけれど、今の自分だからできる役柄は挑戦したいですね。髪が長いのでお化け役をやったりとか、悪女からおばあちゃんから、いろいろやっていきたいんですけれど。娘が見て喜んでくれるような役もやりたいなって思っています。お化けといえば私じゃないか、って言われるようになりたいです」
最後に、2023年の抱負を漢字1文字で表現してもらった。
「来年の抱負は、これ(『輝』)です。12月7日が私の兄の誕生日で、兄の名前なんです。夏に(日本に)来た時もコロナ禍で会えなくて、来年こそは会いたいなと思って。来年の抱負でもあり、私からお兄ちゃんへのラブレターです。(自分の人生も)輝いていたいですね」
(ABEMA NEWSより)