【震災12年の歩み】地元の絆と全国の愛を乗せて…三陸鉄道が被災5日後から走り続ける「意味」
【映像】岩手から元気を…思い乗せて走る「三陸鉄道」
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 今月の11日で東日本大震災から12年目を迎える。福島・岩手・宮城3県の震災前の姿を航空写真で振り返るとともに、復興の歩みを『ABEMA Morning』は取材した。今回は、岩手県内を走る「三陸鉄道」。

【映像】岩手から元気を…思い乗せて走る「三陸鉄道」

 海岸沿いを走る、白地に赤と青の車体。地元住民の生活の足としてかかせない「三陸鉄道」、通称“三鉄=さんてつ”だ。

 こたつ列車など地域に密着した取り組みで、地元住民のみならず観光客からも愛される存在となっている。そんな三鉄も東日本大震災で大きな被害を受けた―。

 写真【1】は1948年の宮古駅上空からの航空写真。駅周辺の田んぼだった場所には住宅が建ち並び、町が栄えていく様子がわかる。しかし、津波で沿岸の建物は被害を受け、宮古駅のすぐ横を走る鉄橋は流された(写真【2】)。

写真【1】
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 一方、写真【3】は1947年の田野畑村の島越駅上空。駅を基点に、川に沿って住宅が建てられていたが、津波が内陸まで襲ってきたことがわかる(写真【4】)。この津波で駅舎も流出。線路は崩れ、周辺の建物は跡形もなく流された。

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「当時、線路を歩いていましたからね、人が」

 こう話すのは三陸鉄道の金野淳一さん。開業当時から運転士や車掌を務めるなど三鉄を支える存在だ。

「(1984年の開業初日は)どの列車も乗り切れないぐらいのお客さんに乗車していただいて、各駅に出迎えの人があふれて…そういう光景を今でも覚えている」(三陸鉄道 取締役運行本部長 金野淳一さん)

 そんな、多くの人で賑わっていた三鉄も津波の影響で一時は全線が不通に。しかし、震災の5日後には一部区間で運転を再開させた。

「地域の人たちの家も車もお金も全部流されて困っているんだから、まずは(列車を)走らせると」(同)

 三鉄は震災で経営の危機に陥ったが、被災したレールを加工し販売するなど様々な努力を重ね、乗り越えた。

 島越駅も、がれきが撤去されたあと道が整備された。2014年には新しい駅舎が誕生。三鉄も全線で運行を再開した。

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 しかし、2019年の台風19号で被害を受け、その後コロナ禍に。現在も苦しい状況が続いている。

「観光客はまだまだ。徐々に増えてきましたけれども…」(同)

 そんな三鉄を後押しする動きもある。朝ドラでヒロインを務めた、のんさんのファングループが行ったクラウドファンディング。岩手から全国へ「元気」を発信したいという思いから、実行委員会は2022年、およそ800万円の支援額を集め、あまちゃんのラッピングトレインの実現に向けて活動している。

「三陸鉄道を通して復興を支援したいという思いでラッピングをしていただいている。そういう思いがあるから、三陸鉄道は震災からも復旧できたし、台風(の被害)からも戻れた。地域の魅力がないと目的地として選ばれないから、沿線の人と協力して地域の魅力をアップする活動をしたい」(同)

 地元の人との絆、全国の人からの愛を乗せて、三陸鉄道はこれからも走り続ける。
(『ABEMA Morning』より)
 

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