東京・渋谷、今は美容室となっている場所に伝説のライブハウスがあった。「シアターD」。
【映像】ドランクドラゴン鈴木拓、チャンス大城などから矢野氏へのメッセージ
お笑いブームの1995年にオープン。東京若手芸人の登竜門と呼ばれ、バカリズム、いとうあさこ、テツandトモ、スピードワゴン、ドランクドラゴン、など後に大ブレイクした芸人たちもここから巣立って行った。
しかし、2016年11月、惜しまれつつ閉館。さらに翌年、劇場元支配人である矢野康弘氏(49)は原因不明の難病により「見ること」が難しくなった。
矢野氏とシアターDについて芸人たちは
「誰からも好かれていた。兄貴肌で人が集まる青春の場所でもあった」(鈴木拓)
「『成り上がり畑』っていう1日80組ぐらい出られるライブがあったんですけど、どこにも通用しなくても出してくれた」(チャンス大城)
「すごく親しみやすくて、当時の東京の芸人はみんな矢野さんにお世話になっている」(永野)
矢野氏は1974年東京生まれ。父親が渋谷でストリップ劇場をやっていた影響で幼い時から芸人への憧れをもっていた。
「ストリップ劇場にコント赤信号の皆さんが出ていた。お笑いにはかなり触れ合っていた」(矢野氏)
シアターDは1995年、矢野さんの父が「演劇劇場」として開業。当時テレビに出られない芸人たちは演劇の舞台の前座や幕間でネタを披露して腕を磨いた。しかし時はお笑いブーム。これまで演劇を目当てに劇場に来ていた客はテレビに移り劇場は経営難に。
1997年、息子の矢野康弘さんが23歳で支配人に。お笑い専門劇場に舵を切った。矢野氏が「お笑いの人楽しいからみんな集まれ〜!というノリだった。シアターDは24時間鍵をかけてなかった。ライブ終わりに飲みに行って終電を逃した芸人たちは、タクシーで帰るお金がない。困るだろうなと思って。勝手に入って勝手に寝てていいよ感だった」
シアターDは惜しまれつつ閉館。その後のある日、妻の久美子さんが矢野さんの異変に気が付いた。
「目が覚めたら部屋の電気を消してくれと。これはもうただ事じゃないと思って」
矢野さんの病気は「眼球使用困難症」。視力や視野に問題がなくても光を浴びるとまぶしさや目の痛みなどを感じてものを見ることが難しくなる病。
「小さな明かりを見ても苦しいんですよ。例えばお風呂のお湯を沸かす40℃とかっていう文字盤、あれが目に入ってくるだけで具合が悪い」
ささいな光でもめまいがするため、部屋を遮光カーテンで覆い、目には二重でアイマスク。光を完全に遮断、妻の久美子さんが在宅介護している。
原因も不明で治療法も確立しておらず、光に敏感なので視力と視野も測れない。そのため、現在の日本では視覚障害と認められておらず、公的な支援も受けられないという。主治医である若倉雅登氏によると「眼球も正常、眼球から脳に伝える視神経などの道も異常がない。物を見る機能をうまく使えないことを総称して眼球使用困難症といっている。目がうまく開かない、目を開けると痛くなる、眩しくて辛い」と話す。
このような状況にあっても矢野氏は「テレビでは見れないが、“お笑いって本当にオモロいな”って思って笑うことが前より増えた気がする。いちファンとしてお笑いの楽しさに気づいた。でも、できればあの頃一緒に頑張った人たちを、もう1回この目でネタを見たい。こんな俺みたいな暗い部屋から出れない病気の人とかの希望になっている。俺たち本当に楽しんでいるからさ。頑張って笑わせてちょうだい」
矢野氏とシアターDに恩があるというタレントのまんぼうやしろはこう口にする。
「芸人がケンカしたり、変な企画をやろうとしても、矢野さんは一度として芸人や企画を否定しなかった。だからこそ、今残れている僕みたいな“変な芸人”がやれる道筋を残してくれた」
(『ABEMA的ニュースショー』より)
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