11月16日、WWEスーパースターの中邑真輔が、シャイナ・ベイズラーと共に来日。日本時間の11月26日に行われるWWEのPLE(プレミアム・ライブ・イベント)『サバイバーシリーズ』のプロモーション会見を行った。
その会見後、WWEホール・オブ・フェーマーの武藤敬司との対談が実現。前後編でお届けする前編は、まずともに日米のマットで活躍した新旧スーパースターのふたりに、WWEの魅力と日米のプロレスの違いについて語ってもらった。
聞き手&文/堀江ガンツ
――お二人が揃ったということで、あらためて今年の元日、NOAH日本武道館大会で実現した、グレート・ムタvsシンスケ・ナカムラ戦の感想を聞かせていただけますか?
中邑 グレート・ムタという世界中、とくにアメリカでセンセーショナルを巻き起こしたプロレスラーの最後のシングルマッチの相手として試合ができたことは、ひじょうに光栄だったというのがまずひとつ。また、武藤さんの言い方を借りれば、自分のプロレス人生においても類を見ない“作品”ができたなと思いますね。いろんな状況が偶然重なって起きた奇跡なので、他に比べようがないものができあがったな、と思います。
武藤 たしかに、あの試合は本当にラッキーというか、真輔が言う通り偶然生まれた試合であって。今こうやってABEMAのプロレスアンバサダーをやってるけど、あの時点ではこんな話はいっさいなかったわけで。だから真輔戦をきっかけにホール・オブ・フェイム(WWE殿堂入り)があったり、どんどんつながって現在に至ってるよね。
――今年10月にABEMAでWWEの独占配信が始まりましたけど、もしかしたらそういった大きな流れが生まれるきっかけの試合でもあったわけですね。
武藤 ただ試合をやっただけじゃなく、大きな反響もあったし。真輔がさっきも言ったように良い作品、美しい作品ですよ。『週プロ』の表紙にもなった、真輔がムタに肩を貸してバックステージに向かう、写真一点でも美しいよね。本当にアーティスティックというか。真輔は絵をいっぱい描いてるからさ、あの試合は「静止画」の美しさもあったんだよ。真輔が描いたムタTシャツのイラストは美しくないけど(笑)。
中邑 それでも売り切れましたから(笑)。
――影響という意味では、元日のムタvsシンスケ・ナカムラに感化されて、元UFCファイターの佐々木憂流迦選手が先日NOAHでプロレスデビューをはたしました。
武藤 この前、NOAHの新宿FACE大会のとき、彼と控室が一緒だったんだよ。その時も、アイツがプロレスに踏み切ったのは「ムタvs中邑を見て決意した」って言ってたよ。そういう影響を与えられたっていうのは、うれしいですよね。レスラー冥利につきますよ。
中邑 彼は(総合格闘技道場)和術慧舟會の後輩なので、新日本プロレス時代から「お前、プロレスラーやれよ」ってよく声をかけてたんですよ。アイツにはアイツのこだわりがあるんだろうなと思って、アメリカで再会したときもアイツの活躍を応援するつもりだったんで。ここまで来たら、あとは自分でがんばれよって思いますね。
――中邑選手は10月にWWEのプレミアム・ライブ・イベント(PLE)『ファストレーン』でセス・ロリンズの持つ世界ヘビー級王座に挑戦した際、ムタ戦で着用した白いコスチュームで入場しましたが、あのコスチュームに込めた思いを聞かせてください。
中邑 ムタと闘ってインスパイアされたものや、ムタ戦の経験を出したいということですね。とはいえ、僕がたとえばシャイニング・ウィザードを使ったりとか、ドラゴン・スクリューから足4の字をやったりするのは簡単なんですよ。まあ、毒霧はまだ僕の身体にちょっと残ってたんで使ってはいたんですけど(笑)。やっぱり、それをいとも簡単に出すことはしたくなかったんけど、あのラストマン・スタンディングはそれを使うにふさわしい舞台だったかなと僕は思ってますんで。
武藤 真輔はいま、ヒザ蹴り(キンシャサ)がフィニッシュになってるけど、俺と最初に闘ってた頃はヒザ蹴りをやってなかっただろ?
中邑 やってなかったですね。僕のプロレス人生というか格闘技人生のなかでヒザっていうのはものすごく印象深いんです。たとえば高山(善廣)さんとか武藤さんにやられたのもそうだし、総合格闘技でも(K-1ファイターのアセクセイ・イグナショフに)顔面にヒザ蹴りを喰らって鼻骨骨折したり。だったら自分で使うしかないなっていうことでヒザを使うようになったんですね。
ーーそういう蓄積の上でキンサシャが生まれたと同じように、元日のムタもご自身の血となり肉となってると。
中邑 そうですね。日本で起こった奇跡を線として自分のプロレスにつなげることができて、非常に喜ばしく思ってます。
武藤 レスラーってそういうもんでしょ。試合で得た経験のすべてを吸収していくのがレスラーだから。俺だって昔、足4の字をリック・フレアーに毎日やられてたのがどっかでインプットされてんだよ。それが髙田延彦戦という肝になる試合の時にパッと出たから、通用したんだよ。
■「もしかして無理してない? 我慢してるんじゃないの?」WWE挑戦を後押しした妻の一言
——中邑選手はWWEに参戦して早8年目になりますが、当初、日本のプロレスとの違いに驚いたことなどはありましたか?
中邑 カルチャーショックという意味では、プロレスについてよりも普段の生活のほうがデカかったですね。たとえば宗教感がいかに大事だとか、コミュニケーションにおいても、特にプロレス界にいる人間の会話なんかはすごく崩れた英語なんですよ。辞書にも載ってないような言葉だとか、そういうこともショックのひとつとしてあったりもしますし。昨今、日本人レスラーがアメリカの団体に単発参戦される方はけっこういらっしゃると思うんですけど、向こうに移住するとなると話は変わってくるので。
武藤 しかも家庭を持ってるんだもんな、それはすごいよ。俺がアメリカに行ったのは、まだ独身の若い頃だったからさ。最初にWWEに行くってなった時、家族の反応はどうだったの?
中邑 逆に家族が背中を押してくれた部分もあるんですよ。こんなことははじめて言うし、普段は家族の話はしないですけど、まあもういいかな(笑)。
武藤 聞かせてくれよ(笑)。興味あると思うよ。
中邑 僕がまだ新日本にいる頃、毎年のルーティンも決まってきて、自分のポジションもなんとなく固定化されてとき、ウチのカミさんに「もしかして無理してない? ホントは挑戦したいのに家族がいるからって我慢してるんじゃないの?」って言われて。そこから一気に流れ始めた部分があるので。
武藤 そういう後押しや、家族のバックアップっていうのは不可欠だろうな。
——WWEに入ってプロレスの部分ではすぐに順応できましたか?
中邑 まあ、自信はありましたよ。日本のプロレス界で培ってきた経験は絶対的な武器なんで。ただ、細かい部分での違いは多々ありますけど、そこは「こういうものだ」と思って日々更新していった感じです。
――日本とアメリカでファン気質の違いみたいなものは感じましたか?
中邑 日本とアメリカの違いというより、アメリカは広いので行く先々で土地柄も違えば観客の反応も違うんですよ。とはいえ、新しい体験を求めてアメリカに来たので、それらを自分の中で消化して慣れていくしかないと思いますね。
武藤 この前、ピッツバーグに行ってあらためて感じたのは、向こうは家族連れが圧倒的に多いんだよ。子どもたちが「行きたい」って言ったら親が運転して連れて行くしかないもんな。
中邑 アメリカ人は2、3時間の運転は屁でもないんで。5、6時間でも普通に運転して来ますから。
武藤 そこがまた日本とは違うなって思ったりするよね。
中邑 会場まで来るファンと、ネットだけにしかいないファンでもまた違ったりするんで。やっぱり、自分の足を使って観に来るファンの熱量はすごいですね。
――アメリカのWWE会場に行くと、歓声を含めたあらゆる音量に驚きますよね。
武藤 ピッツバーグの時なんか、急にものすごい音で花火がバンバンバンって鳴ったから、心臓麻痺起こしそうになったよ。
中邑 バックステージではパイロ(特効花火)が鳴る前にパトランプが光るんですよ。だから、それを合図にみんなが一斉に耳を塞ぐんです(笑)。
武藤 なんだよ~、俺も教えて欲しかったよ(笑)。ホントにビックリして心臓に悪いよ。
——あとWWEで驚くのは会場の大きさですよね。今、日本ではABEMAで毎週「RAW」と「SMACKDOWN」が無料で観られますけど、どちらも毎回大会場で。日本で言えば毎週、両国国技館と大阪城ホールをやってるようなものですよね。
武藤 そうだよな。だから選手は大変だと思うよ。
中邑 だから、あそこにたどり着くまでにハウスショーを2試合やってますからね。そこでいろんなことを試しながら、「RAW」や「SMACKDOWN」に出ていくという。
武藤 あそこに出続けるっていうのは、並大抵のことじゃないだろうから。
中邑 そうですね。いろんな奴が消えていきましたからね。メインロースターに昇格しても後ろの試合に出ることなく、またNXTに戻るヤツもいたりとか。そこで生き残れるかどうかは運もあるし、持ってるか持ってないかっていうのもあるだろうし。ただ、自分が持っているかって言われたら、それはよくわからないですけど。
武藤 いや、持ってるだろ。もう何年もトップどころにいるんだから、大したもんだよ。だからあらためて思うのは、身体だけは気をつけてほしいってことだな。
【後編へ続く】