今、Togetterでまとめられた予備校講師の投稿が話題になっている。
【映像】予備校講師に「東大出てないのに俺に教える資格あるんですか?」
「先生どこ大出身ですか?」「東大出てないのに俺に教える資格あるんですか?俺、東大志望者ですよ」
生徒にそう問われたのは、東進ハイスクールなどで漢文の講師を務める寺師貴憲氏が29歳の新人だった頃。その時は「僕は頭悪いし勉強も苦手だけど、漢文だけはもう10年以上勉強してきているから大丈夫。他の科目については全然敵わないけど、漢文については君が僕に追いつくには…とりあえず東大に入って、勉強して…半年はかかるよ!」と答えたという。その生徒は納得して講義を受け、東大に合格したという。
学業だけでなく、会社や職場でも誰かを教えるという場面に直面する。プロスポーツでも、優秀な選手が必ずしも優秀な指導者になるとは限らない。教える、指導することの極意はどこにあるのか。教える資格とは何なのか、『ABEMA Prime』で寺師氏を招き考えた。
■自分でやるのと教えるのは別物?
寺師氏は、当時のやりとりについて「なんて質問をしてくるんだろうと思ったが、そのように聞いてくる生徒はいると聞いていたのもあり、自分の中では消化している。“素の力は敵わないかもしれないが、とにかく漢文だけはずっとやってきた。教える仕事もしっかりとやっているので、その点は勝つよ”という意味で伝えた」と振り返る。
実業家のハヤカワ五味氏は「質問した学生はまだ教えるという経験はなかったんだろうなと、若くていいなと思う」とコメントした上で、「会社で人に教えたりする時も、感覚的に理解しているだけではなく、構造的に整理してわかりやすくしたり、相手によって伝え方を変えたりと様々な要素がある。自分ができるのとは別物だ」と指摘。
慶應義塾大学名誉教授の竹中平蔵氏は「こんなバカな質問をするなら大学に行く資格はない、と私なら言う」と苦言を呈し、「ハーバード大学の学長と話すと、“東京大学は東京にある大学だろう。それ以上の意味はない”と。大学ランキングも世界30位くらいで、アジアの中でも遅れをとっているのに、神様みたいに思う変な学歴信仰がある。東大という外形基準で判断するのは、若くても幼くても問題だ」と述べた。
寺師氏は普段、生徒をどう指導しているのか。「プランを立てるのは別の人がやり、僕は漢文だけに集中する。生徒に学力をつけてもらうのが大事で、彼らがどこをクリアすれば点数が取れるのかを考える。過去問を大量に研究して、ひとつずつ身に付けさせればというのを分かった上でやっている」「ひとりを見ている時は生徒のキャラクターに合わせて変えている」と答えた。
■竹中氏「何を競うかで教える立場も変わってくる」
「教える資格」とはどのようなものなのか。例えば、「免許」がいる先生(教員免許)やサッカーコーチ・監督(指導者ライセンス)、「專門性」がいる水泳や体操教室のほか、職人の「技術」、研究・調査や培った経験などの「知識」、過去の受賞歴や作品が「肩書」になる場合もある。
竹中氏は「何を競っているかによって教える立場は違ってくる。受験は単純で、記憶力と瞬発力でかなり決まる。同時にその場の雰囲気に押し流されないメンタルトレーニングも必要だ。そうすると教える側に求められる要件は決まってくる。日本の教員免許はすごくいい加減で、大学で一定の科目を取ればいい。そこは予備校なんかのほうがはるかに厳しくチェックされ、評価されていると思う」との見方を示す。
また、「慶応大学の湘南藤沢キャンパスの小論文で、もう何年も前だが面白い問題が出たことがある。陸上のボルト選手のコーチは、筋肉の動き方一つひとつを科学的に分析して、それに基づいたコーチしていると。一方で、日本の落語家は師匠にくっついていくだけで、背中を見ながら脇でその呼吸を感じて学ぶ。どちらが重要だと思うかを書かせたもので、絶対的な答えはないすごく良い問題だと思う。両面ある」と紹介した。
Xでは「東大出身者にしかわからないことがあるはず」という声もある。寺師氏は「受験生としては失敗組だったので、“こうしたから失敗したよ”というのは伝えている」と、経験を話しているという。
指導者に必要な要素について、竹中氏は「教えるというのは、気付かせること」とした上で、「“普通の教師はちゃんと教える。良い教師は自分でやって見せる。もっと良い教師は生徒の心に火をつける”という言葉があるが、火のつけ方もまたいろいろある。私たちも教えながら学ぶが、その時に持ち帰るもの、“take away”は何だったのだろう?と考えることが大事だ」とした。
(『ABEMA Prime』より)
■Pick Up