新型コロナウイルスの感染拡大という未曽有の事態に陥っていた2020年。機能不全の家庭に生まれ、虐待の末にドラッグに溺れる杏が、人情味あふれる型破りな刑事をはじめとした人々に出会い、生きる希望を見いだしていく。しかし、微かな希望をつかみかけた矢先、どうしようもない現実が彼女の運命を残酷に襲うのだった。いったい杏の背景にはなにがあったのか、未来になにを見ていたのか――。1人の女性の人生を基にした映画『あんのこと』が6月7日(金)から公開される。主人公の杏を演じたのは、映画『サマーフィルムにのって』『由宇子の天秤』などの演技が注目を集め、ドラマ『不適切にもほどがある!』で大ブレイク中の河合優実。監督は、『22年⽬の告⽩-私が殺人犯です-』など、サスペンス映画のヒットメーカーである入江悠氏。2人がどう事件に向き合い、作品を完成させたのか、話を聞いた。
河合優実、入江悠監督からの手紙を受け取り「指針になったし、立ち返ることもできました」
――今作は、実際の出来事が基になっているということですが、この題材を作品にすべきだと思った背景を教えていただけますでしょうか。
入江悠監督(以下、入江監督):2020年にコロナ禍になって、あっという間に社会の息苦しさが自分の中で増幅していきました。40代になって強くなったつもりでいたのに、思ったよりも自分がぜい弱だな、弱いなと気づいてショックを受けたんです。なのに、2022年ごろにはいろいろなことを忘れかけていて、そのことも衝撃でした。あんなに苦しかったことをどうして忘れるんだろう。そういう感情が自分のベースにあった上で、事件の記事を読んで、忘れてはいけない、刻んでおきたいと考えたのが始まりでした。
――事件を胸に刻むためには主人公の杏を誰が演じるかはとても重要だったかと思います。河合さんをキャスティングした理由を教えてください。
入江監督:記事を読んでみてくださいと教えてくれたプロデューサーから、主人公は河合優実さんでいかがですかと提案いただいて。おお、それはすごいいいですね、となりました。河合さんにはお会いしたことがあって、演技も見たことがあったので、この難しい役から逃げずに向かってくれるという直感がありました。
――河合さんはオファーを受けたときにどんなお気持ちでしたか。
河合優実(以下、河合):脚本を読んだときに、脚本自体に動機がある感じがしました。この脚本が私のところに来て、この映画が必ず作られないといけないと直感で思ったというか…。読んだ瞬間に、私は杏のことを離さない。大丈夫、私が掴んでいるから大丈夫という確固たる気持ちになりました。心を決めないとやれなかったというのもあるかもしれないけど、ゆるぎないものを感じました。
――動機というのは。
河合:プロデューサーがやりたいこと、入江さんがやりたいことなどいろいろあると思いますが、全部置いておいて、脚本自体に強さを感じました。感覚的ですが、映画になるべきものだと強く思ったんです。
――難しい役柄だったと思いますが、お2人で演技についてお話はされたのでしょうか。
入江監督:僕は、話をするのは苦手なのであんまりしないんですよ。脚本を書きながら調べたことをお渡ししたり、杏という人のキャラクターを作って行く過程で、2人で模索していった感じはあります。
河合:お手紙をいただきましたよね。
入江監督:恥ずかしいですが…。なんか、手紙を書かないと後悔するなって思って。1週間くらいかけて書きました。言葉って強いじゃないですか。演出意図を伝えすぎると変な風に誘導しちゃうので、一週間くらい考えて書いてお渡ししました。
――1週間はすごいですね! 普段からお手紙を書かれるんですか。
入江監督:書かないです、書かないです。河合さんが演じる杏が見えてくると、その先でぶつかるであろうハードルもわかってきます。正解がないけど、モデルがいるというのは、役者にとってすごい負担だと思います。困難が見えてきた段階で、原点みたいなことをもう一回確認しておきたかったので手紙を書きました。
――もしよろしければどんな内容のお手紙だったのか知りたいです。
入江監督:抽象的なことしか書いてなくて。
河合:どういう姿勢で臨むのか、困難があったときに監督がどんなスタンスを取るのか、などの前提の部分が書かれていました。すごく指針になりましたし、迷ったときに立ち返ることができました。1週間もかけたとは知らなかったけど。それくらい言葉を選んでいることはわかりました。監督がそれを俳優に渡すことの強い意味もわかっていたので、ほかの作品と比べても準備段階で色んなものを交換していた感覚は大きいです。お喋りしていたかっていうとそうじゃないですが。
――実際に杏を演じた河合さんはいかがでしたか。
入江監督:河合優実という人がこの題材とどう取り組んでくれるかを見たいというか、とても信頼していました。なので、現場では「今、杏は何を感じましたか」って聞いたりして、河合さんを通じて、杏の気持ちを教えてもらっていました。
――中でもとくに印象的なことがありましたら教えてください。
入江監督:あんまり弱音を吐く人ではないですが、「疲れますね」と言ったことが印象に残っています。映画の中では使っていませんが、撮影の後半で杏がバスに乗ってぐるぐるとひたすら走っているところを撮りました。それが終わったときに「杏を演じるのはすごい疲れますね」って。
河合:全く覚えてないですね。
入江監督:この映画の主人公で疲れないはずがないじゃないですか。杏として、そこに居ることは疲れるんだなというのが僕に響いて、お願いしてよかったなと思いました。
――河合さんは疲れたという感覚はありましたか。
河合:疲れたと言ったことは覚えていないですが、感じていたかもしれないです。辛いなぁとか、追い込まれるなとか、悲しいというよりも、毎日一生懸命に、体力、エネルギー、集中力を使っていました。迷いもあったし、すごい色んなことを考えるけど、その上で素直にいたいから調整していく力が必要でした。それで、疲れるっていう言葉が素直に出たんだと思います。
入江監督「河合さんの力を借りて、僕も生身で世界に向き合うことができた」
――監督から見た俳優としての河合さんの魅力を教えてください。
入江監督:俳優としての河合優実さんは、映画とかドラマを見ている人たちが思っていることと変わらなくて、それを言葉にするのは難しいですね。それよりもこの映画は、俳優以前の河合優実さんが持っているものにゆだねていたところがあります。例えば、俳優でも経験を積んでくると引き出しが増えて、技術も豊富になります。でも、彼女はいろんなものを手放して、一人の人間として向き合ってくれるんじゃないかって。そこに賭けていたところがあって。だから本質以外はあまり見ていなかったんです。
――人間を見ていたということですか?
入江監督:杏の部屋に入った瞬間に、どう空気を吸ってくれるか。どういう姿勢でいるのか、座るのか立つのか…。技術ではない、人に対する想像力というんでしょうか。そこに惹かれていたんです。僕もですし、カメラマンも、照明も録音も、その瞬間の河合さんを逃しちゃいけないというのがありました。
――ゆだねられる演出は、河合さんはいかがでしたか。
河合:そう言っていただけてうれしいです。ありがとうございます。
入江監督:僕自身にも問題があって、20代の時に映画の仕事を始めて、積み重ねていくうちにいろんなものがついてくるんですよ。それを脱ぐのは難しくて。今回は河合さんの力を借りて、ちょっとだけ脱げた気がしています。経験ではなく、生身で世界に向き合うという感じですけど。映画は、フィクションも含めて、ドキュメンタリー的なところがあります。河合さんのこの年のタイミングで撮れたことは大きかったと思います。
――河合さんは、今の若い年齢でこの作品に出会ったことについてどう思われますか。
河合:演技を始めて5年ですが、その短い中でも自分についてくるもの、積み重ねは感じます。作品によって役の考え方とか、事前準備も変わってきます。理屈を抜きにして、杏に真摯に向き合うっていうことだけに比較的フォーカスできたような気はしています。
――ありがとうございます。最後に読者のみなさんにメッセージをお願いします。
入江監督:河合優実という人が本当に世界と向き合っている。杏という子が世界と向き合っていたのと一緒ですが、それをスクリーンで見ることができるのはとても豊かなことです。劇場に来る人たちにとってもそれぞれの杏がいるはず。遠い存在かもしれないし、近いかもしれないけど、その人の豊かさが感じられたら、それだけでもいいですね。
――ありがとうございます。たくさんの人に映画が届くことを楽しみにしています。
取材・文:氏家裕子
写真:You Ishii