戦後の移民政策で南米パラグアイに移住した日本人と、その子孫などが850人ほど暮らす「イグアス 日本人移住地」。東出昌大とひろゆきが同所に建つ資料館を訪れ、日本人移民の歴史に触れる場面があった。
8月25日、『世界の果てに、東出・ひろゆき置いてきた』がABEMAにて放送された。言論界で大暴れする日本一ロジカルな男・ひろゆきを、論理の通じない過酷な世界に、10万円だけ渡して放り込んだらどうなるのか?そんなテーマのもと、アフリカ・ナミビアの砂漠に置き去りにされたひろゆきが、アフリカ大陸を横断する旅に密着した『世界の果てに、ひろゆき置いてきた』。その第2弾となる本作では、前回ひろゆきの旅のパートナーを務めた東出昌大が、エクアドル・プラタ島に置き去りにされ、南米を横断する旅に出発。ひろゆきは2日目から合流した。なお、使って良い移動手段はローカル路線バス、ヒッチハイクなど基本的に陸路のみとなっている。
パラグアイで迎えた南米旅22日目、東出とひろゆきは「イグアス日本『匠』センター」を訪れた。同センターは、移住者の記録を集めた資料館のような施設。この日一行が宿泊した「ペンション園田」のオーナーである園田さんが館長を務めていることから、案内してもらえることになった。入館してすぐ、ひろゆきは「眞子さまも来ているんですね」と、壁に展示されている写真に目を留めた。ちなみに現上皇ご夫妻も、1978年に同センターを訪問されたそうだ。
館内には、園田さんがパラグアイへ移住した際のパスポートも展示。ひろゆきが注目したのは、パスポートの写真が園田さん個人のものではなく、家族写真だったこと。ひろゆきが「3人写ってるのはありなんですか?」と園田さんに尋ねると、「昔は15歳未満は1人で(パスポートを)とれなかった」とのこと。ひろゆきは「家族併記パスポートって初めて見た」と珍しがっていた。
さらに園田さんは、移住した当時の状況について「原生林を切って焼いて、少しずつ畑にしていった」と説明。政府から土地の無償提供を約束され、移住した地は、手つかずの原生林だったのだ。当時の移住者は、大変な苦労を強いられたのだという。
園田さんがパラグアイに移住したのは、11歳の頃。歳の離れた兄がすでに移住していたことから、園田さんも両親や兄弟たちと共に移り住んだのだという。しかし、「兄貴はイグアスの実態は知らさないわけ。言ったらこんなひどいところ来ない」と園田さん。初めて原生林を見たときの心境を問われると、「こんなわけのわからないところに来て、次の日はもう帰りたくて帰りたくて」と振り返り、「初帰国できたのは26年後」だったと明かした。
最後に東出は「鹿児島に帰りたいと思うことはありますか?」と尋ねた。すると園田さんは「最初のうちは帰りたかった」としながらも「今はもう自分の立ち位置がしっかりわかるから。農業立国なんですけど、農業の分野で非常に未開発分野が多くて、そのなかで自分たちがやったことが、パラグアイの産業になっている。ようやく今になって、パラグアイに来て良かったと思う」と返答。「パラグアイに来て良かった」という園田さんの言葉を聞いた東出は、穏やかな微笑みを浮かべ、小さくうなずいていた。