【映像検証】「災害医療」の最前線 映像語る”いまへの教訓” 阪神淡路大震災30年
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阪神淡路大震災当日の救急病院で撮影された貴重な映像が残っています。私たちはこのとき現場で対応した医師を取材。1人でも多くの命を救う、災害医療の教訓がみえてきました。(1月18日OA「サタデーステーション」)

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■“野戦病院” ひっ迫した医療現場

30年前、6434人の命を奪った「阪神淡路大震災」。神戸市だけでなく、淡路島でも最大震度7を観測。1200人以上がけがをするなど、大きな被害が出ました。

島で唯一の救命救急病院だった県立淡路病院には、多くのけが人が運ばれました。

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その様子を撮影したのは、普段から学会用に手術の様子などを記録していた
栗栖茂(くりす・しげる)医師(当時46歳)。

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栗栖茂医師(当時46歳)
「最初の患者さんが搬送されてきたときに、家が何十軒かもうこけて埋まってる人がいるとかいう情報があった」

1995年1月17日 県立淡路病院(栗栖医師撮影)
栗栖医師「(搬送の)状況は?」
水谷医師「一宮からまだ(救急車が)着いてないみたいなんです」

映像に映るのは、当時3年目の水谷和郎(みずたに・かずお)医師(当時30歳)。当直明けでした。

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当直の医師は3人。地震後、救急には他の科の医師や看護師も駆けつけました。

水谷和郎医師
「重症で心臓マッサージをしながら、運ばれるっていう人が増えてきた段階で『ちょっとこれやっぱり違うな』っていう思いはありましたね。…やっぱり『悲惨』ですよね」

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至るところで心肺蘇生が行われ、県立淡路病院の受け入れ態勢はひっ迫。当時、兵庫県内の多くの病院も同じ状況でした。懐中電灯のわずかな光を頼りに治療が行われるなど、まるで“野戦病院”に。

一部では、断水や必要な物が足りず、適切な治療ができなくなるなど、医療現場の“限界”も浮き彫りになりました。

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■映像に残る“命をめぐる過酷な決断”

幸いにも非常電源によってライフラインは確保された県立淡路病院。
当時の映像を見返すと、こんなシーンが…

1995年1月17日 県立淡路病院(栗栖医師撮影)
松田外科部長「心臓が止まって呼吸が止まって、20分経っていますから。この方の蘇生はもう困難です。これは、もう諦めてもらわんと。止め!次の人にいかなあかん。止め!」

非情にも見える、蘇生中止の指示。当時の外科部長・松田昌三(まつだ・しょうぞう)医師の苦渋の選択でした。

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1995年1月17日 県立淡路病院(栗栖医師撮影)
松田外科部長「とにかくね、助けられる人を助けないかん。もう助からない人は、これはもう諦めな。この人も(心肺停止から)何分くらいか分かる?」
救急隊員「9時現場到着してから15分程度CPR実施して…」
松田外科部長「止めなさい。ストップ!」

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水谷和郎医師
「あぁ、そうなんや…こういう時はこういう判断、やめなさいって言っていいんやっていうのは、ある意味本当に衝撃でしたし。でも、それをしていったから救急外来が回っていったのは確かですね」

映像には、ある言葉が記録されています。

1995年1月17日 県立淡路病院(栗栖医師撮影)
「大規模災害になったらトリアージの問題が出てくるから」

けが人の治療の優先順位を判断する“トリアージ”。現在では、災害医療の基本とされていますが、当時は社会にほとんど浸透していませんでした。

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1995年1月17日 県立淡路病院(栗栖医師撮影)
松田外科部長「本当にダメな人は…助かる人を連れてきて下さい。その人を優先」

栗栖茂医師
「“防ぎ得た外傷死”、そういうのを無くす。助かるべき人の取りこぼしは絶対にしないと。それが救急の一番大事なところなんですね」

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また、蘇生中止のほか、軽症者は他の科に振り分ける対応もとられました。

1995年1月17日 県立淡路病院(栗栖医師撮影)
松田外科部長「ちょっと打ったような人らは外科外来行ってください。ここは救急の重症の人でいっぱいになりますから、外科外来に行ってください」

この日、県立淡路病院では、平常時のおよそ10倍の傷病者を治療したといいます。

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1995年1月17日 県立淡路病院(栗栖医師撮影)
松田外科部長「この子若いしいっぱいやって!若いから、いっぱい頑張って!」
松田外科部長「もう止め。もう確認し。(死後)硬直がきとるな?瞳孔見たって」

誰を救い、誰の命を諦めるのか―

限られた医療資源を有効に活用するためのやむを得ない判断でした。

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■“災害医療の厳しさ” 映像が残した教訓

それは、当時若かった水谷さんに重くのしかかりました。震災後、蘇生中止の末、亡くなった方の遺族と再会した水谷さん。その時の様子が脳裏から離れないといいます。

水谷和郎医師
「(遺族が)『私生きとってもしょうがないから』って言うわけですよね。それに対して本当に何も言えなかったんです。自分が情けないというか、どう声かけたらよかったのかなっていうのが今でもわからないんですけど、あの時どう言ったらよかったのかなっていうのは…」

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あの時感じた“無力感”

だからこそ、医療の世界を目指す学生らに向けて、災害医療の厳しさを伝える活動をしています。

去年12月 神戸看護専門学校 水谷和郎医師
「黒タッグ(心肺停止や救命の見込みがない)をつけないといけないかもしれない立場に、皆さんは今からなっていくわけです。それが災害医療です」

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阪神淡路大震災をきっかけに、災害現場などに迅速に駆けつける「DMAT(=災害派遣医療チーム )」が発足するなど、見直された災害医療。それでも、「首都直下地震」では、適切な治療を受けられずに死亡する「未治療死」がおよそ6000人発生すると試算されています。

水谷さんは、災害医療の現実を知り、日ごろから備えることが重要だと話します。

水谷和郎医師 
「ある程度、災害ってこんなことですよ。だから、備えて上手に動いてくださいね、自信を持って動いてくださいねってできるのだったら、やっぱり結果が違ってくると思うんですね」

そして、医療従事者ではない私たちにも出来ることがあるといいます。

水谷和郎医師
「誰もが早く治療してもらいたいって思いはあると思うんですけど、優先順位があるんですよっていうのを知ってもらうっていうのは、やっぱり一般の方には大事かなというふうに思います」

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【取材後記】

「1995年生まれ」と伝えるとほとんどの人から「阪神淡路大震災のあった年ね」と言われる。それほど多くの人の心に刻まれた“あの日”。今回、取材させていただいた水谷医師・栗栖医師にとっても、“あの日”の記憶は色褪せることはありません。水谷医師は当時、今の私とほぼ同じ年齢です。話を聞く中で、印象的だったのは、「あの日は、みんな必死で目の前の命に向き合ってたんです」といった言葉。それでも、諦めざるを得なかった「やるせなさ」を今も背負っています。阪神淡路大震災をきっかけにトリアージやDMATなど、国内の災害医療システムは進歩しています。しかし、そのチャンスをどう活かすか…それは、今後起こりうる震災に直面する我々にかかっています。だからこそ、水谷医師は震災の記憶を伝える活動を続けています。今回取材して分かった「災害医療の厳しさ」。それは、医療従事者だけでなく、我々も知っておくべき大切なことです。南海トラフ地震や首都直下地震が起きるとされている中で、1人でも多くの命が助かるように。今後も取材を続けていきたいと思います。(サタデーステーション 若林奈織)

実際に取材した方以外にも多くの被災者の方から話を聞いて、テレビに出ていない悲惨な映像を見てきたこの2ヶ月。阪神淡路大震災当時生まれていなかった私にとってそれは、数十年前に起きたこととは思えないほど、教科書で見た「戦争」のような、そんな衝撃を覚えました。今回取材をした水谷医師は、テレビに映し出された地元の燃えている光景を目の当たりにしながらも、目の前にある命と向き合っていました。あの日のことは忘れたくても忘れられないと話します。「もう30年」ではなく、被災された方にとっては年数関係なく一生残り続ける傷で、後悔やトラウマと共に生きている人が大勢いる。今後起こりうる大地震で、同じような苦しみを背負う人が1人でも減るよう、30年という節目に1人でも多くの人に阪神大震災の事実を知って欲しいと思い、制作に携わりました。(サタデーステーション 畑中彩里)

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