いまも帰れない故郷…続く強制疎開 豊かな島が一変 激戦地“硫黄島”
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硫黄島
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東京から南へ1250キロ。島の端にある摺鉢山以外は、平らな土地の広がる小さな火山島・硫黄島。

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最初の開拓者
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絶海の孤島に最初の開拓者が入ったのは、1889年のこと。硫黄の採掘が主な目的でした。やがて島には1000人を超える人が住むようになります。

島民だった1人、渡部敦子さん(95)。強制疎開を経て、いまは栃木県で暮らしています。

渡部敦子さん
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渡部敦子さん
「本当に硫黄島というのは、将来は、日本のハワイになるぐらいにいいところだったんですよね。一年中、あたたかくて、果物はなんでもあって。魚は買わなくても、釣りに行っては、マグロやサワラや底物が届く。みんな、それぞれに、豊かに暮らしていたところです」

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日常が記録された貴重な写真。着物に、スーツ、ワンピース、着るものには不自由しませんでした。スポーツも盛ん。特に野球は人気で、いくつものチームが作られました。こうした暮らしは、太平洋戦争が始まった後も、しばらく続いたといいます。

空襲
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しかし、開戦から2年半が経った1944年6月。ついに硫黄島にも空襲が始まります。

アメリカ軍
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アメリカ軍
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当時、アメリカ軍は、サイパンやグアムなど、マリアナ諸島を制圧し、日本本土の攻撃拠点にしようとしていました。ただし、マリアナ諸島は、主力爆撃機『B29』が、本土を射程に収めるギリギリの場所。そこで、硫黄島を占領して中継基地とし、攻撃能力を飛躍的に高めようとしました。

防空壕に身を隠す日々。そこに、豊かな島の面影はありませんでした。

渡部敦子さん
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渡部敦子さん
「自然の穴にみんな隠れて。ごはん食べるどころじゃなかった。毎日、空襲で」

強制疎開
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さらに、日本軍は7月、地上戦に備え、島民に島を出ていくよう命令します。強制疎開です。

14歳だった渡部さんは、帰ってこられなくなるとも思わず、着の身着のまま、島をあとにしました。

渡部敦子さん
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渡部敦子さん
「履物もなくて、裸足で逃げて歩いて、その悔しさったらなかったです。涙も止まらなかったです」

すべての島民が、疎開したわけではありません。

16歳以上の健康な男性
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16歳以上の健康な男性は、軍属として島に残り、日本軍を支援するよう命じられました。その数、103人。

戦況は日に日に悪化していきます。

物量作戦
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アメリカ軍は、物量作戦を展開。容赦ない艦砲射撃は連日続き、上陸した兵士は、島を焼き払いました。

福島県に住む齋藤信治さん(89)。強制疎開は8歳のとき。父親は、おじらとともに島に残され、アメリカ軍の攻撃にさらされました。

齋藤信治さん
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齋藤信治さん
「親父と一緒にいたおじさんといとこが、親父と3人で壕で飯ごうの朝飯を食べていたときに、眉間に(爆弾の)破片が2人に入って即死。親父は伏せて、右腕の手に破片が入って、軍の飛行機で内地へ送られた」

父親は、かろうじて一命をとりとめましたが、深い傷を負いました。

硫黄島の戦いが終結
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硫黄島の戦いが終結したのは、強制疎開から約8カ月後の1945年3月26日。

生存者
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軍属として残された島民103人のうち、生き残ったのは、わずか10人ほどといわれています。

島は、その後、アメリカ軍の重要な基地となりました。

あれから80年。
いまも、硫黄島の空には、アメリカ軍の戦闘機が飛び交います。

島が日本に返還された後も、自衛隊の基地を使い、定期的に訓練を行っているのです。見つかっていない1万以上の遺骨は、滑走路の下にも眠っていると考えられています。

日本政府
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一方で、日本政府は、強制疎開させた人たちが戻って生活することを認めていません。火山活動によって島が隆起し、住むには適さないというのが、理由です。

齋藤信治さん
「いまだって住めるんですよ、いくらでも。噴火があったって、いくらでもあいてるんですよ。もう何もいらないですよ、硫黄島で生活するには。自給自足はいくらでもできますね。だから、絶対に俺は帰るという気持ちがずっとあって」

栃木県に住む渡部さん。作っているのは、硫黄島でよく食べられていた“島寿司”です。

渡部敦子さん
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渡部敦子さん
「魚をしょうゆに漬ける。粉のからしをつけて食べると美味しい。こういう桶で5~6個作って、1軒に1個ずつ配る。結構、硫黄島の人がいるんです。ここは、みんな。どこも行くところがない人たちが、昔、開拓で入って。『硫黄島に帰るんだ』という話ばかりしてたんです。だけど、いまもう95歳ですからね。1人、2人、みんな欠けちゃって、いなくなっちゃった」

地蔵
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集落のはずれにひっそりと佇む地蔵。島に帰れないまま亡くなった人たちが、供養されています。

渡部敦子さん
「若い人は、あんなところに帰って、何をするのと言うけれど、私らにすれば、あたたかいところだから。いまだに硫黄島へ帰る考えをしてます」

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