しかし、中学時代に世界グランプリの影響でバイクレースに熱中し、高校生になると姉のバイクをマルボロカラーに魔改造。彼の情熱はバイクへと傾き、アマチュアレーサーを目指す。レーサーを目指しフリーター生活を送るも、練習中の交通事故で右足と右腕を骨折し、全治半年の大ケガを負う。これが彼の人生の大きな転機となった。「センスないな」とレーサーの道を断念した彼の手に残ったのは、事故による休職中の補償などで得た約200万円の慰謝料だった。
バイク修次郎がこの慰謝料を握りしめて向かったのが、パチンコ店だ。共演者たちも驚くほどの極端な行動だが、これが彼のパチプロ人生のスタートとなった。しかし、その後の8年間は連戦連敗。給料をすべてパチンコにつぎ込み、「飯食う金もなくなるくらい」の壮絶な日々が続いた。彼を突き動かしたのは、当時派遣社員として働いていた工場で仲間がクビを切られるのを見た「派遣切りの恐怖」だった。「クビ切られたらパチンコ打てなくなる」という恐怖が、彼をパチンコ研究へと向かわせたのだ。
攻略本を読み漁るなど徹底的な研究の結果、わずか4カ月で連戦連勝を果たすまでに覚醒した彼は、28歳でパチプロとして独立。その後、憧れだった『パチンコ必勝ガイド』のライターとなる。
ライターとして憧れの大崎一万発から課せられたのが、「日本一周を記事にしろ」という過酷なミッションだった。ルールは「47都道府県、勝つまで次に移動できない」。旅費はすべて自腹だったため、彼は軽自動車で車中泊を続け、出発時には両親に遺書を残すほどの覚悟を決めた。
2年間、走行距離5万キロ超、過酷な旅路で暴走族などに遭遇しながらも、彼はパチプロとしてのスキルと精神力で乗り越えた。そして、最後の沖縄で勝利を収めた瞬間、計算した収支が+約200万発だと分かると、彼は号泣したという。
この「旅打ち日本一周全県全勝」は、文字通り人類史上初の偉業であり、バイク修次郎というパチンコライターの揺るぎない伝説となった。
(ABEMA/「パーラーカチ盛りABEMA店」より)

