ニュース番組にもたらした“革命”久米宏さん死去 共演者が明かす“素顔”

『ニュースステーション』で18年間、キャスターを務めた久米宏さんが、今月1日、肺がんのため亡くなりました。81歳でした。

1944年、戦時中、一家の疎開先で生まれた久米さん。
早稲田大学を卒業し、アナウンサーとしてTBSに就職します。永六輔さんのラジオの中継リポーターや、『ザ・ベストテン』などの娯楽番組を担当。スマートかつユーモラスな語り口で、人気者になりました。

30代半ばで独立。歳を重ねて、報道番組の司会という夢を強くし、所属会社とともにテレビ局に企画を持ち込みます。

1985年10月7日。のちに“ニュースの革命”と呼ばれる『ニュースステーション』が始まります。
報道番組は、成熟した大人のものという、それまでの固定観念を覆すアイデアが盛り込まれました。コンセプトは“中学生でもわかるニュース”。ブーメラン型の机は、出演者同士が表情を見て会話するためです。

久米宏さん(当時43)
「(Q.はじめからニュースステーションはよかったわけじゃなくて、3カ月で打ち切りかっていうくらい大変だった)10人中0.5人しか面白いと思ってくれなかったんです。(昭和)60年に始まったんですけど、61年になって、お正月が過ぎて、しばらくしたときに、チャレンジャー号が事故を起こしたんです。翌日のニュースステーションの数字がよくなった。それをキープして、そのうち2月になったらフィリピン革命。あれが番組にぴったり入るように起きたんです」

当時、斬新だった、模型を使った説明。こだわったリアルタイム情報。

球史に刻まれた一戦も、予定を変更して、視聴者とともに見守りました。
1988年10月19日。シーズン最終戦、勝たなければ優勝できない近鉄バファローズは、延長戦の末、時間切れ。のちに『10.19』と呼ばれた激闘を伝えました。

冷戦が終結し、世界地図が描き換わる激動の時代に。久米さんの言葉で知ったニュースがあります。

久米宏さん(ニュースステーション1990年10月6日)
「(PKO法案について)「本来、日本国民のひとりひとりの意見というのは、収斂されて国会で議論されて、法案になったり、議決されるのですが、どうも様子としては、いま、我々国民がいるところと国会が地続きに本来はなっているのですが、地続きではないなという気が、インタビューをしたり、FAXを見ていると、気がしてまいりました」

メディアや企業、元総理などを狙った“テロ行為”に怒りを露わにしたこともありました。

久米宏さん(ニュースステーション2000年5月2日)
「単数か複数かわかりませんが、犯人は、多分、この番組を見ていると思うんですが、もし、見ていたら、あなた人を殺したんだから、警察に出て、決着をつけるべきです。あなたにはその人間性も勇気もないでしょう。なぜならば、あなたはただの卑怯者だから」

久米宏さん(当時43)
「(NHKは)ニュースを伝える人間は、自分の意見を言っちゃいけない。世の中に、もしニュースステーション1つしかニュース番組がないとしたら、多分、そうします。これだけニュース番組があるなら、一つくらいそういう番組があっても」

働く人や企業、同じ時代を並走する人々を愛した久米さん。驚きや感動、憂いや怒りを、分かち合いました。

わかりやすく伝えるため、「テレビに何ができるか」番組の細部に久米さんの情熱が宿ります。

日航機墜落事故では、犠牲者の無念を靴で伝えました。

久米宏さん(ニュースステーション1985年12月30日)
「こちらにございますのは、座席表から判断した男女別、そして、年齢で判断しました520人分の靴が座席の順に並べてございます」

政治家から俳優、ミュージシャン、国内外の“時の人”とも対峙しました。

早稲田大学の演劇サークル仲間として、変わらない仲だった田中眞紀子さん。

田中眞紀子さん
「テレビ局に行くと、スタジオから顔を出して『いまの見てたよ』とか、ラジオに出ると『聴いたよ』と電話くれたりとか。自分を器用に変えるとかしないで、自分のスタイルのままでした」

黒柳徹子さんのコメントです。

黒柳徹子さん
「あなたとのナマ放送の厳しい、やり取り、懐かしいです。本当は涙もろく優しい人だった。『私の涙が見えますか?』本当に友達でいてくれて、ありがとう」

渡辺真理さんのコメントです。

渡辺真理さん
「実感がありません。今週も久米さんからの辛口なメールが届くような気がします」

テレビの可能性を信じ、ラジオで本音を語りました。

久米宏さん(1988年4月)
「僕たちは生きても20~30年。その後は、若い人の“責任”。日本が戦争しないでほしい。それは僕たちの後の世代が背負うべきもので、僕が生きている間は、戦争しないでほしい。僕と同じ考え方の若い人が頑張ってくれれば。それがバトンタッチ、駅伝ならたすきタッチ」

◆『ニュースステーション』初代プロデューサー、テレビ朝日・早河洋会長のコメントです。

早河洋会長
「久米宏さんには、2004年3月までの18年を超える長きにわたりご出演いただき、テレビ司会者としての天賦の才とニュース番組のメインキャスターとしての見識で、当社の報道に多大な貢献をいただきました。ともに昭和19年生まれの初代プロデューサーとキャスターの関係で、濃密で充実した番組づくりの日々を過ごすことができました。4795回、平均視聴率14.4%は、大衆に支持された久米さんの不滅の記録です。永年のご功績に深く感謝申し上げ、心からご冥福をお祈りいたします。本当にありがとうございました」

◆『ニュースステーション』にリポーターやキャスターとして、17年間、携わった元テレビ朝日アナウンサーの渡辺宜嗣さんに聞きます。

(Q.ニュースステーションが始まったとき、NHKの和歌山放送局で新人記者をやっていて、当時のライバルは新聞だと思っていた。だから新聞に負けずに特ダネを出すのに、毎日、駆けずり回っていたのですが、ニュースステーションを見て、横っ面を張り飛ばされた思いがしました。実際、久米さんとは、どんなことを話しながら、番組を作っていたのですか)

渡辺宜嗣さん
「久米さんを語るのに、相応しい方、大勢いらっしゃると思うのですけど、個人的に、私にとっては、アナウンサーになることを志したときから本当に憧れの方で、アナウンサーになってからも、いつも仰ぎ見る北極星のような方だったのです。その方と一緒に、ニュースステーションで仕事ができる喜びとうれしさは体中から湧き出て、番組を担当させていただいていた。久米さんと一緒にできる、一緒に番組が作れるということが、スタッフもみんなうれしかったんです。本当にうれしかった。テレビとラジオを本当に熟知している方で、その天才的な語り手、しゃべり手である久米さんを真ん中に置いて、番組を作れるという喜びが、スタッフにあふれかえっていて。1985年スタートですから、いまから40年前です。時代はいまと違って、とてもアナログな時代です。携帯電話は、弁当箱のようなのを背負ってかけるようなものを持っている時代でしたから。当時のスタッフは無駄話が多かった。みんなで無駄話をするわけです。番組が始まる前でも、終わったあと、1杯、飲みにいくときでも、無駄話だらけ。久米さんは、本番が終わるとお帰りになるのですけど、翌日、その無駄話を聞いて、『そんな話してたの。おもしろいね、行けばよかった』と言いながら、その無駄話から『それ、おもしろいよね』『それってニュースでこう扱ったらどうなの』というのが湧き出てくるような、無駄話を自然としていたというか。それがアナログ時代の、前例がない番組を作っていこうというみんなの思いに包まれていたからこそ、大越さんがNHKでうらやましく見ていらっしゃったのかなという気がします」

(Q.久米さんが大切にしているライブ感を、中継先で受けるわけですが、どうでしたか)

渡辺宜嗣さん
「怖かったです。何を聞いてくるかわからないし。何を話すと久米さんは喜んでくれるのだろう、なんてことも考えながら、とにかく久米さんという方は、知りたがり屋でおもしろがり屋だった。『それ宜嗣、おもしろかったよ』『あの見方、なかなか人にはできなくて、あれよく気が付いたね』というようなことを、ロケ先や中継先から帰ってきて、言ってくださる。それがうれしかった。僕の憧れの人にそういうことを言われるのですから、それはやる気になりますよね。でも生中継は、怖かったです」

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