
太平洋戦争末期、激しい地上戦が繰り広げられた沖縄での組織的戦闘が終わってから81年が経過しました。世界各地での戦闘はやむどころか、イランをはじめ、今年に入ってさらに戦火は広がりました。危険な時代の空気を、沖縄の人たちは敏感に感じ取っています。23日に開かれた沖縄全戦没者追悼式を取材しました。
【画像】戦火が広がる今“最後の激戦地”で思うこと 沖縄『慰霊の日』戦後81年
戦火が広がる中…沖縄慰霊の日
大越健介キャスター
「強い日差しが照りつける中、23日も平和の礎にはたくさんの遺族が訪れて、花を手向け、祈りを捧げています。しかし今の世界は各地で戦禍が絶えることはありません。超大国を中心とする“力による平和”という考え方が幅を利かせています。この沖縄で、たくさんの犠牲を生み出し、戦争を繰り広げたアメリカが、正にその力による平和の最大の信奉者であるように見えます。沖縄の人たちは今、その現状をどのように受け止めているのでしょうか」
最後の激戦地となった糸満市摩文仁。沖縄戦では県民の4人に1人が亡くなりました。

新城久恵さん(84)
「(母は)戦火を逃れて、やんばるに行って、マラリアで亡くなった。戦争がないことを祈っています。怪しいじゃないですか最近、日本。戦争は覚えてないですけど、戦後の苦しかった時期、分かるじゃないですか、全部」
與儀清孝さん(70代)
「孫たちが悲惨な目に遭わないよう祈るだけ」
長女 美紀乃さん(30代)
「人の尊い命が日々戦争という名で失われていくのは、とても心がニュースを見ていて痛い。沖縄には基地もある。アメリカの戦争がもし激しくなったら、こっちにも火が来るかもしれない。不安はどこかにある」

中学3年生
(Q.いつもここに来てどんなことを思う?)
「沖縄戦とかで、ここに名前が書かれている方々よりも多くの人が亡くなっているのを、ここに来て感じて、戦争はやってほしくない」
追悼式が始まります。
高市総理初の沖縄訪問

沖縄県 玉城デニー知事
「大国の力による一方的な現状変更の試みによって国際秩序が揺らいでいる状況は、平和を希求する沖縄県民の、そして世界中の人々の願いから最もかけ離れたものだと言わざるを得ません。戦争はたとえ遠い国のことであっても、決して対岸の火事ではありません」
高市総理は就任後、初めての沖縄訪問です。

高市早苗総理大臣
「我が国は二度と戦争の惨禍を繰り返さないという決然たる誓いのもと、平和を重んじる国家として歩みを進めてまいりました。これからも日本人の誰もが平和で心豊かに暮らせる世の中を実現するため、不断の努力を重ねていくことを御霊にお誓い申し上げます」
「生きたい」曾祖母の右足の傷
沖縄戦の記憶をいかに受け継いでいくか。今年の平和の詩『生きたいと願った証』。

豊見城市立豊崎中学校2年 亀谷琉奈さん
「あの日の沖縄には青い海も優しい風もなかった。空は黒く、地面は揺れ、人々の叫び声が絶えなかった。爆撃の音が心まで壊していく。まだ若かった曾祖母は小さな体で必死に走った。血だらけの道を、倒れた人たちの横を、もう動かない人を見ながら、涙を流す暇もなく、ただ生きるために。そして愛する夫の命を案じながら『お願い生きていて』その想いだけを胸に、足がもつれても、呼吸が苦しくても、転びそうになっても、前へ前へと走った。しかし、その願いはもう二度と届かなかった。その時のことを話す曾祖母の声は今でもとても優しい。でも私は知っている。その優しい声の奥に今も消えない悲しみがあることを。曾祖母の右足には今も傷が残っている。それは戦時中、自分で引っ掻いた傷。灰色の空の下、爆撃の音が鳴り響く。恐怖と不安でいっぱいになり、右手に握った石で、自分の右足を何度も何度も引っ掻く。気づけば手も足も血だらけだった」

戦争の話をしてくれた、曾祖母の上地ヨシさん。95歳で亡くなりました。上地さんが疎開していたロタ島は当時、日本の統治下にあり、アメリカ軍の空襲や艦砲射撃にさらされました。日本を爆撃して帰還するB-29が余った爆弾を落としていった島でもあります。

豊見城市立豊崎中学校2年 亀谷琉奈さん
「もし曾祖母があの日走っていなかったら、もしあの日命を落としていたら、私はここにいなかった。曾祖母の右足の傷はただの傷じゃない。『生きたい』と強く願った証。『戦争は二度としてはいけない』という叫び。私はその想いを、これから先も伝えていく。もう誰にも血だらけの道を走ってほしくないから。もう誰にも愛する人の命が奪われることに怯えてほしくないから。もう二度と沖縄の空を戦争で染めてはいけないから。平和は当たり前じゃない。たくさんの人の涙と苦しみと『生きたい』という願いの上にある」
豊見城市立豊崎中学校2年 亀谷琉奈さん
(Q.思いは伝わりましたか)
「伝わったと思います」
(Q.まだ世界中のあちこちで戦争が起きています。あなたやひいおばあさんは世界中で起きていることをどんな思いで見てますか)
「言語とかは違うけれど同じ人、人間なので、みんな優しい心もあるだろうし、意見が違うこともあるけれど、みんな仲良く」
(Q.力で物事を解決するのではなくて、仲良く話をすれば、それが理想ですね)
「はい」
沖縄戦残された“傷あと”

大越健介キャスター
「こちらの礎ですが、他の多くの礎と異なっています。書かれているのはアルファベット。沖縄戦は多くのアメリカ兵の命も奪いました。沖縄戦で亡くなったアメリカ兵は1万人を超えると言われています。激戦は日本人の市民や日本兵だけではなくて、アメリカ兵も奪っていきました。
慰霊の日の23日。同じ場所で、アメリカ人による追悼式も行われていました。

アメリカ空軍第18航空団 ジョン・ギャレモア司令官
「どの国の陣営で戦うかを問わず、戦闘は美しいものではなく醜いものであり、この神聖な地においても多くの勇敢な兵士が命を落としました」
日米合わせて20万人以上が犠牲になった沖縄戦。日本人の死者数は軍人・民間人を合わせて18万8000人に上ります。1万2520人が命を落としたアメリカにとっても、太平洋戦争で最も犠牲の大きい戦闘だったと言われています。

浦添市にある米軍基地。その中に沖縄戦の資料館があります。沖縄に赴任した兵士をはじめ、多くの人に歴史を語り継ぐために作られた、この施設。そこには、アメリカ軍の兵士が攻撃を受けた戦争の傷あとが残されていました。
沖縄戦史資料館 マジェスキー館長
(Q.1つの水筒に30個も銃弾のあとがある。その兵士が体に何発の銃弾を受けたのか想像もできません)
「生き残った人も、生き残らなかった人も、全ては偶然です。状況次第です」


他にも粉々になったヘルメットなどが置かれ、沖縄戦の悲惨さを伝えています。アメリカ兵のものだけではありません。日本軍に看護要員として動員された『ひめゆり学徒隊』が持っていたカバン。必死の抵抗を繰り広げる日本側が、金属不足のために信楽焼で作った手榴弾。

沖縄戦史資料館 マジェスキー館長
「沖縄戦のあらゆる側面を網羅しようとしています。私は日本とアメリカの行為を断罪する立場にない。私はただ何が起きたのか、歴史を説明し、後世に伝えたい」
沖縄戦元米兵(99)の“証言”

太平洋戦争末期に差し掛かった、1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。日本とアメリカ、双方にとって決死の戦いが始まりました。その戦いを経験した人がいます。元海兵隊員のニール・マッカラムさん(99)。18歳になったばかりで“初めての戦場”として足を踏み入れたのが沖縄でした。

元海兵隊員 ニール・マッカラムさん
「味方の艦隊に突っ込む神風特攻隊をこの目で見ました。まるで独立記念日の花火のようだった。衝撃そのものでした」

地上戦で最も多くの死者が出た沖縄戦。アメリカ軍は火炎放射器などを使い、容赦ない攻撃を浴びせました。そこに巻き込まれる沖縄の民間人。日本側も少年兵を動員し、自爆攻撃を繰り広げました。マッカラムさんはこの時初めて、仲間の無残な遺体と直面します。

元海兵隊員 ニール・マッカラムさん
「防衛線に向かう途中、2台の大型トラックとすれ違いました。荷台にあったのは三層に重なった海兵隊の遺体でした。雨具の隙間から彼らの目や捻じれた肉体が見えました。乾いた血に染まっていました。私たちは驚愕し唖然(あぜん)としました」
“あらゆる地獄を集めた”とも言われる、血で血を洗う戦い。アメリカ軍では精神を病む兵士が急増していました。一方で。
元海兵隊員 ニール・マッカラムさん
「決して忘れたくない光景があります。島の女性でした。赤ん坊を抱えながら横向きに倒れていて、死後3~4日だったか、肌は油にまみれていました。私に一生つきまとう辛い光景でした」
日本人への憎しみと、民間人を巻き込んだという罪悪感。複雑な思いを抱き続けていましたが、戦後訪れた日本での出来事が転機となります。
元海兵隊員 ニール・マッカラムさん
「日本人の子どもたちがいました。学生服を着ていました。私が白人だと気づくと『ハロー サー』『アイ ラブ ユー』とか片言の英語で話しかけてくれた。私はそれが楽しかった。そして戦争の記憶がよみがえりました。『彼らの父や祖父と戦ったのだ』と。その瞬間、他人を忌み嫌う自分を捨て“憎しみ”という言葉を捨てました」
そんなマッカラムさんが今、思いを馳せるのは、沖縄に向けて出発した、あの日のこと。

元海兵隊員 ニール・マッカラムさん
「みんなで歌ったり、冗談を言ったり、嘘のガールフレンドの話をしたり、賑やかな日でした。その後、多くの仲間が沖縄で命を落としました。彼らは一緒に帰還することなく、私のように人生を全うすることもなかった。毎日考えています。日本兵のことも考えています。それ以上に沖縄で命を落とした沖縄の人たちのことを考えます」
沖縄戦日米双方の“心の傷”

大越健介キャスター
(Q.取材を通してどう感じたか)
「戦争の過酷さを言い表す時『戦争は人間を人間でなくしてしまうものだ』ということを、経験者はしばしば口にします。確かにその通りなんだと思います。ただ逆に言うと、そもそも兵士もまた人間であることに変わりはありません。日本兵との闘いで心の傷を抱え続けた元海兵隊員のマッカラムさんが、その子孫の年代の子どもたちとの触れ合いの中で憎しみの感情を捨てたように、国であるとか、軍という組織を超えたところで、本来は分かり合える存在であるはずです」

大越健介キャスター
「兵士が1人の人間として過ごす空間、それが基地の前に広がる繁華街です。部隊の中でスポーツのチームを作るためでしょうか、ユニフォームの注文を承りますというシャツの販売店があります。その隣にあるのはバーです。その向かいにはタトゥーのお店があります。相次ぐ兵士の事件や不祥事で綱紀粛正が求められたことなどから、以前より店は少なくなっているといいますが、それでも基地のある所では街ではおなじみと言っていいと思います」
1ドル札に残された“願い”

大越健介キャスター
「その1つ、ここ金武町から30キロあまり離れた宜野湾市の普天間基地の近くでは、沖縄の基地で過ごしたアメリカ兵たちの足跡をとりわけ強く感じることができる場所があります。路地裏にひっそりとたたずむ一軒のバー。創業57年、アメリカ占領下の時代からアメリカ兵が足しげく通ってきた場所です。中を覗いてみると、壁や天井にびっしりと張られているのは全て紙幣です。そのほとんどがアメリカの1ドル札です。店の客が貼っていったもので、その枚数はもう数えきれないほどです。紙幣で埋め尽くされた壁の一角は、とりわけ古い1ドル札です。かなり黄ばんで見えます。オーナーの長堂清子さんによると、これはベトナム戦争の時、基地からベトナムの戦地へと向かう兵士たちが残したものだということです。自分の名前や部隊名、訪れた日付、恋人の名前などを紙幣に書き込み、店に残していきました。生きて帰ってこられるようにという一種の願掛けでした。戦地に向かう不安や恐怖を振り払うように、兵士たちはここで歌い、踊り、飲み明かしました。そして、帰還を果たせず、二度と会うことのなかった兵士も少なくなかったと言います」
