
卑弥呼が治めたとされる邪馬台国。その場所を巡っては今も多くの説があります。今回は中国の歴史書に残された記録を手掛かりに、専門家の見方を取材しました。
魏志倭人伝に記された倭国の位置
邪馬台国や卑弥呼を巡る論争の手掛かりとされる「魏志倭人伝」。東洋史専門の渡邉義浩教授は、魏志倭人伝が「三国志」の一部であり、そこに書かれた倭国の位置は実際とは大きく異なると指摘します。
佐々木亮太アナウンサー
「今回のテーマが邪馬台国・卑弥呼ということで、どうして三国志と邪馬台国・卑弥呼なのか?というのがまず疑問です」
早稲田大学 文学博士
渡邉義浩教授
「三国志という本は正史に数えられているものなんですけれども、全部で65巻あるんです。その中の第30巻が、そこの中に2000字ぐらい倭国のことが書いてあるんですね。それを三国志の魏の部分なので魏志倭人伝と言っているわけであって、魏志倭人伝という本があるわけではなくて、三国志の一部なんですね」
魏志倭人伝は「三国志」のほんの一部です。そこには、関西中心部にあったとする畿内説、九州にあったとする九州説など、論争の発端となった邪馬台国を含む倭国の位置が記されています。
魏志倭人伝が書かれたのは、中国の統一国家・漢が滅んだ後、「魏」「呉」「蜀」の3国に分かれ、統一をかけて争った三国志の時代です。そのなかで倭国は、全く思いがけない場所にあったことになっています。
「当(まさ)に会稽(かいけい)の東冶(とうや)の東にあるべし」
会稽郡とは、当時の「呉」の一部です。その中の東冶県の東の方にあるだろう、と記されています。東冶県は、現在の浙江省紹興市辺りのことです。つまり、魏志倭人伝で表現されている倭国の位置は、現在の台湾沖にあることになります。
さらに、魏志倭人伝の記述だけではありません。当時の情報をもとに描かれた地図を確認すると、台湾沖かどうかまでははっきり確認できませんが、現在の地図では海にあたる場所に日本が描かれています。本州の方向もねじれた地図です。
渡邉教授
「地図はものすごい後の地図で、1200年ぐらい後の地図なんですけれども、地図って割合変わらないんですよね。中国の倭国認識ってこの後もズレていかないんですね。そういうことなので、その地図というものが受け継がれていくので、その15世紀の朝鮮の地図でもありますけれども、すごく日本の位置としては面白い描き方をしていると思います」
“呉を牽制する大国”
魏志倭人伝の記述と後世に受け継がれた地図。この2つの要素が一致するなかで、なぜ倭国はこのような場所に描かれたのでしょうか。
渡邉教授
「三国志という本は三国の中で魏が正当であるということを書いておりますし、呉が魏というものに攻り上がっていこうとする時に、その後ろ側にあって牽制(けんせい)できるような、そういう位置になければならないというのが公式見解。そこにあるべきだという話なんですね」
「魏」「呉」「蜀」のうち、「魏」がライバルである「呉」を牽制するため、都合よく「倭国」を描いたというのです。
佐々木アナ
「形としては挟んでいる形になりますよね。つまり倭国は呉を牽制するために必要だったということですか?」
渡邉教授
「そうですね。おっしゃる通りだと思います」
呉を挟み撃ちにできる位置にある国同士が同盟を組むことが大切だったとみられます。さらに魏志倭人伝は、倭国をあまりに巨大な国として表しています。
「倭の地を参問するに、絶えて海中の洲島(しゅうとう)の上にあり、あるいは絶え或いは連なり、周旋五千余里可(ばか)りなり」
渡邉教授
「そういうことなので、中国が方一万里だと倭国は方五千里になっているので、呉の後ろの水の中の大国である。そういう位置づけになるんです」
中国の大きさが「方1万里」なのに対し、倭国も「方5000里」ある大国だと描いているのです。魏は倭国を位置だけでなく、大国として書き記す必要があったと渡邉さんは指摘します。映画「レッドクリフ」で描かれた、魏が呉に敗れた有名な戦いが関係しているといいます。
渡邉教授
「三国志、お好きなんですよね?(魏の)曹操は何で負けていますか?」
佐々木アナ
「赤壁(の戦い)…?」
渡邉教授
「赤壁の戦い。つまり水の戦いで負けているんですよ。呉というものが何を強化しているのかっていうと、水軍の力ってものをすごく強化しているんです。呉というものに対抗するためには何が必要なのかというと、海を行く力っていうのが必要になって、それが倭国というものが海の中のでっかい大国である以上、当然強力な水軍力を持っているわけですから、呉の水軍力っていうものに対抗できるはずだ」
魏はライバルの呉に「赤壁の戦い」で敗北しました。強大な呉の水軍に対抗するため、東の同盟相手である倭国は挟み撃ちできる場所にあり、かつ“水の民が統治する大国”に仕立てる必要があったというのです。激しい戦いの歴史が残る両国。魏が呉をいわば欺くような形で、倭国の位置と大きさを決めたと考えられるといいます。
卑弥呼に破格称号と金印
魏と卑弥呼の邪馬台国は、実に密接なつながりを見せています。特別扱いといえるほどで、魏の皇帝・曹芳は、卑弥呼に称号を与えたと記録されています。
「詔書を下して倭の女王に報じて曰く『親魏倭王の卑弥呼に制詔す。我、甚だ汝を哀(いつく)しむ、今、汝をもって親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、』」
親魏倭王。つまり「王」という身分、そしてその称号が刻まれた金印まで贈ったと記録に残っているのです。
佐々木アナ
「親魏倭王という言葉も聞きますけども」
渡邉教授
「親魏、魏に親しむと書くわけなんですけど、その皇帝というものに次ぐのは王なんですね。異民族にあげる王というのは国内の王よりも一歩下がるわけではありますが、その王という称号をもらっている」
当時の中国の身分は上から皇帝、王、公、侯、伯、子、男と続きます。卑弥呼は上から2番目の好待遇だったことになります。
渡邉教授
「例えば、日本よりも文化レベルが高かったであろう朝鮮半島の韓族たちがもらっているのは、王とか全然もらっていない、もっと低い称号をもらっているわけで」
他にも密接さが分かるエピソードがあります。卑弥呼が戦争で苦しんでいる際、魏からは人材や物資も多く贈られていたというのです。位置を偽り、大きさを偽り、さらに倭国の存続を切に願ったのは、再び「呉」のようなライバルが生まれないようにするためだったと推測できます。
鍵は「刺史」
朝鮮半島の帯方郡から狗邪韓国を通り、現在の長崎県対馬まで8000里余り。対馬から壱岐までが1000里ほどで、帯方郡から邪馬台国までは1万2000里。魏志倭人伝には距離だけでなく日数まで記録されています。
これをもとに邪馬台国の位置を探る研究が行われてきましたが、方角や距離が実際に合わないため、九州説と畿内説で100年以上、論争が繰り広げられてきました。
これまで見てきた通り、魏志倭人伝も後を継いだ地図でも、日本の位置や方角まで正しいといえるものではありません。しかし、邪馬台国は畿内にあったという説が有力であることは、ある一つのワードを見るだけで分かると渡邉さんはいいます。
渡邉教授
「なんで畿内説をとるのかというと、邪馬台国に至るいろんな所で九州大学のキャンパスがある伊都という場所で、伊都国というのがあります。伊都国には代々王様がいたんだと記録が出ていて、重要な拠点なんですね。そこに卑弥呼は大率(だいそつ)という役人の派遣をしているということが書いてあるんです」
「国中において、『刺史(しし)』の如くあり」
刺史とは、道や府、県の警察のような存在です。魏志倭人伝は、大率を中国における「地方警察」のような役割だとして記しています。当時の中国には州が13あり、12州は地方の役人である刺史が監察・統治していました。一方、首都圏では違う役職だったといいます。
渡邉教授
「12個だけで真ん中の司隷という州があるんですけれども、そこだけは(刺史ではなく)司隷校尉(しれいこうい)というものが置かれるんです。つまり、東京も警視庁ですよね。他は警察(道府県警)ですよね。だから、首都圏というものは特別なものが置かれるんです。で、伊都国には何が置かれているのかというと、置かれている大率は刺史のようだと中国人が見たんです」
地方には「刺史」が、首都圏には「司隷校尉」が置かれる。現代の日本でも地方に道府県警察、首都・東京に警視庁が置かれるのと同じようにみえます。
渡邉教授
「ということは、そこは首都圏ではないわけです。ということで、その一言だけですが、僕は。その一言だけで、その伊都国っていうものの周辺には300万人ぐらい住んでいるような、そういう広さのところには首都圏はないと、この文章からは分かります。ということになると、他の考古学的な調査を見ると、畿内以外はあり得ないなと私は考えるということです」
佐々木アナ
「なるほど、確実に今の段階では私の中では畿内説ですね」
(2026年7月2日放送分より)
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