“財界総理”経団連会長として…トヨタ・奥田碩元社長が死去 常に変革求めた会社人生

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トヨタ自動車の社長、そして、“財界総理”とも呼ばれる経団連の会長などを歴任し、平成の政財界を支えた奥田碩さんが亡くなりました。93歳でした。

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奥田さん
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奥田さんは、1995年にトヨタ自動車の社長に就任。創業家である豊田家以外から社長が誕生するのは、28年ぶりのことでした。

変わらなければ生き残れない
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時代は、バブルが崩壊し、日本経済に暗いムードが漂い始めていたころ。「変わらなければ生き残れない」という強い危機感がありました。

プリウス
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攻めの一手として目を付けたのが“21世紀の車”として、社内で開発が進められていた『プリウス』です。
販売時期の大幅な前倒しを指示し、1997年に『21世紀に間に合いました』というキャッチコピーとともに世に送り出しました。

奥田碩氏(1997年)
「21世紀においても、自動車が有益な移動資産であり続けるためには、環境への負荷を画期的に抑えた自動車に進化させることが必須。他の追随を許さない、画期的な車に仕上がったと確信しております」

さらに、海外に工場を次々と新設するなど、グローバルな拡大路線を推し進めます。

中国・天津 生産工場
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奥田碩氏(1998年)
「私どもトヨタ自動車は、各国の文化・慣習を尊重し、経済産業と調和を取りながら、ともに成長を図っていくことを産業活動の基本としています」

ロ工場起工
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こうした改革は、トヨタが、アメリカのゼネラル・モーターズを抜いて、世界最大の自動車メーカーへと上り詰める礎となりました。

経団連の初代会長
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また、旧日経連の会長として財界再編を推し進め、2002年に新しく経団連が発足すると、初代会長に就任します。
新興企業だった『ライブドア』の入会を認めるなど、これまでの財界にはない姿勢を打ち出しました。

ライブドア
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奥田碩氏(2005年)
「堀江さんを入れるわけじゃなく、ライブドアを入れるということ。ライブドアという会社が入るわけですからね。特に悪いことを別にしたわけでもないですから、私どもとしては、企業倫理規定に違反しない限り、入っていただいてもいいと」

同時に、政界との距離も急速に縮め、特に、小泉総理とは太いパイプを築きました。

小泉総理
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当時の財界と政界の距離感がよくわかるのが、2005年のこの発言です。

奥田碩氏(2005年)
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奥田碩氏(2005年)
「小泉総理の姿勢について『ワンフレーズ  ポリティクス』と言われるが、実は、選挙になると、総理から『物心 共によろしく頼む』この一言をいただくだけでございまして、私ども経団連は、それだけで大いに内容を理解をしておりまして、政治と経済はうまくいっていると、このように思っております」

2005年の衆院選
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郵政民営化が争点となった2005年の衆院選。経団連は、全面的に民営化を支持し、自民党の圧勝を支えました。
そして、自身は、政府の経済財政諮問会議の民間議員として、政策決定に大きな影響力を持つようになります。

政権自らが“痛みを伴う”とうたった規制緩和を柱とする小泉構造改革には、非正規雇用の拡大や、格差社会につながるといった批判も上がっていました。しかし、時にはメディアを通じて、政権を叱咤し、改革を強力に後押ししました。

奥田碩氏(2002年)
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奥田碩氏(2002年)
「現時点の評価、どこでも聞かれるんですが、何点だという話になれば、私は、最近では15点ぐらいまで上がってきたんじゃないか」

奥田さん
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2008年には旭日大綬章を受章。2012年からは『国際協力銀行』の総裁として、海外で活動する日本企業を支えた奥田さん。今月8日、老衰のため死去しました。

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