「ロン・ヤス会談」後継指名も 中曽根康弘氏の決断を支えた日の出山荘

「ロン・ヤス会談」後継指名も 中曽根康弘氏の決断を支えた日の出山荘
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 東京都西多摩郡日の出町にある「日の出山荘」。中曽根康弘元総理の別邸だったこの場所では、1983年の「ロン・ヤス会談」と呼ばれる日米首脳会談や、旧ソビエト連邦崩壊後の1992年に行われた中曽根氏とゴルバチョフ氏の会談、さらに総理大臣の後継指名など、日本の未来を見据えた決断が重ねられました。

【画像】日の出山荘について語る中曽根元総理

歴史を刻んだ日の出山荘

 まさに日本の歴史の舞台となった日の出山荘について、中曽根氏は晩年、次のように語っています。

日の出山荘について語る中曽根元総理
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中曽根康弘元総理大臣(当時92歳)
「日の出山荘という東京の近くで、森の中で一人でやると。そういう場所を見つけて、そこで精神的な面を刻みながらいろいろ考え、また、ものを書いたりしたと。そういうことでしたね」(2010年)

 日の出山荘が一躍有名になったのは、1983年11月です。日米首脳会談のため、当時のアメリカ大統領のロナルド・レーガン氏が訪れた際、最初に中曽根氏は玄関前にある杵と臼で日本の文化やもちつきについて説明しました。2人が深い信頼関係を築いていることを、世界にアピールしたのです。

夫婦で管理人を務めてきた原ヨネ子さん
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 レーガン夫妻が中曽根夫妻と食事を楽しんだのは、茅葺き屋根の古民家「青雲堂」です。当時の様子を、中曽根氏がこの別邸を所有した時から夫婦で管理人を務めてきた原ヨネ子さんに聞きました。

原ヨネ子さん
「まず(玄関に)あがる前に、おもちをつくまねをしました。当時は、背負子なども飾ってありました」

中曽根氏は自ら茶を点て…
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 中の囲炉裏で中曽根氏は自ら茶を点て、茶菓子とともにレーガン夫妻に振る舞いました。この囲炉裏は、当時から変わらず残っています。

居間では、煮物や天ぷらなどの日本料理を味わった
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原さん
「先生がお掛けになった場所に、どうぞお座りになって」

紀真耶アナウンサー
「いいんですか。ありがとうございます。ここですね」

 隣の居間では、煮物や天ぷらなどの日本料理を味わいました。食事に使われたテーブルは、今も美しいままです。

テーブルは、今も美しいまま
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紀アナ
「ここに座ってらっしゃった」

原さん
「そうですね」

紀アナ
「じゃあ私は今、当時の中曽根さんと同じ景色を見ているわけですね。この景色を見ながら和気あいあいと」

中曽根氏の遊び心あふれるもてなし
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 レーガン氏が羽織っていた日本の伝統衣装「ちゃんちゃんこ」は、中曽根氏の遊び心あふれるもてなしでした。

 この時に吹いた法螺(ほら)貝と、中曽根夫妻が羽織ったちゃんちゃんこは、日米首脳の友情を象徴する貴重な資料として、書斎にて展示されています。

「ロン・ヤス会談」と日米同盟

日米首脳会談の場となった
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 ロン・ヤス会談と呼ばれる日米首脳会談の場となったのは、「天心亭」です。この場所こそ、中曽根氏がレーガン氏と互いに肩の力を抜き、本音で語り合える最良の空間だったといいます。

本音で語り合える最良の空間
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紀アナ
「こちらで会談が行われたそうなんですね」

原さん
「そうですね。当時はじゅうたんで椅子がありました」

 当時、世界は東西冷戦の真っただ中でした。会談では、冷戦下での日米安全保障とソ連への対応、そして、貿易摩擦などで悪化していた日米関係の改善や解決がテーマとなりました。

 「ロン」「ヤス」と呼び合った2人の友情は、日米同盟を支える揺るぎない信頼へとつながっていきました。

「天心亭」で、よく勉強をしていたという
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紀アナ
「会談のための場所として作られたんですか」

原さん
「そうではなく、いろいろお勉強なさった場所ですね」

紀アナ
「総理大臣時代は、こちらでよく何か考えごととかもされていたんですか」

原さん
「そうですね。海外へ行く前などもここでよく原稿をお書きになり、本当によく勉強されていた」

紀アナ
「やっぱり心が落ち着くというか、集中できる場所ではあったんですね」

原さん
「そうですね。誰にも会わないで。だって先生は『鳥が友だ』って」

紀アナ
「鳥が?」

原さん
「鳥が友。『水がおいしい、空気がおいしい、鳥が友だ』っておっしゃっていました」

「戦後政治の総決算」
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 「戦後政治の総決算」を掲げ、3期5年間にわたり内閣を率いた中曽根氏。1985年には日本電信電話公社をNTTに、日本専売公社を日本たばこ産業に、そして1987年には国鉄をJRへと、3つの公社を民営化する行政改革を行いました。

中曽根元総理大臣
「明治以来100年にわたる国鉄の歴史に幕を引くわけですから、我々は大いに責任を持っているわけです」(1986年)

重圧から解放される場所が…
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 歴史に残る大仕事を行う政治家としての重圧から解放される場所が、この日の出山荘だったのです。

後継指名と「ただの人」に戻れる場所

 青雲堂では、こんなこともありました。

原さん
「次の総理を竹下(登)さんにという。ここは禅譲の場ということで、話し合いでお譲りしたという」

1987年4月の統一地方選挙で敗北し…
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中曽根元総理大臣
「選挙の結果につきましては、厳粛にこれを受け止めなければならないと思います」(1987年4月)
「今後は一兵卒として、皆さんのお仲間に入れていただきまして、球拾い等に専心いたしたいと思います」(1987年10月)

退陣の直前に、彼らを山荘に招き…
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 1987年4月の統一地方選挙で敗北すると、中曽根氏は竹下登氏を後継に指名し、11月に退陣しました。その直前には竹下氏、宮沢喜一氏、安倍晋太郎氏という面々を山荘に招き、ここで総理の座を竹下氏に引き継いだのです。

山荘に招き、総理の座を竹下氏に引き継いだ時…
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紀アナ
「そんな大事な話も、ここでされていたんですか!」

原さん
「主人(原清さん)はその時、『竹下さん次頑張ってくださね』って言っていましたよ」

紀アナ
「そんな会話も!」

 そして1992年、ソ連が崩壊し、大統領を退任したミハイル・ゴルバチョフ氏を山荘に招くと、北方領土問題や冷戦後の世界、日ロ関係の未来について語り合いました。

 総理退任後も日の出山荘は、日本と世界をつなぐ重要な外交の舞台だったのです。

 当時の姿のまま、ゆかりの品が展示されている
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 こちらは、総理退任後の平成元年に迎賓館として建てられた書院です。今は記念館として、当時の姿のまま、ゆかりの品が展示されています。食卓に飾られた直筆の油絵もあります。

食卓に飾られた直筆の油絵
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紀アナ
「お上手ですね」

原さん
「入選なさったとか。もっと大きなものも一時かかっていましたけどね」

紀アナ
「本当に、何でもされるんですね」

 書院は中曽根氏の完全なプライベート空間でした。しかし、電話が鳴りやむことはなかったといいます。

電話が鳴りやむことはなかったという
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原さん
「電話がすごかったです。ここの電話番号を教えていないはずなのに」

 総理を辞めた後も、ひっきりなしに相談の連絡があったそうです。そんな時、中曽根氏は、こう話していたといいます。

原さん
「『今、俺は寝ていることにしてくれ』とか、『散歩に行っている』とか」

紀アナ
「(電話に)出たくないから」

(2026年8月25日放送分より)

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