
豊臣秀吉が関わった大阪城や姫路城は、今とは全く違う姿でした。なぜ現在のような城になったのか。復元イラストとともにその歴史を紹介します。
姿を変えた姫路城
城の姿や築城の背景をたどると、豊臣秀吉の思惑が見えてきます。今回は、秀吉が築城・攻略した代表的な4つの城を中心に深掘りします。解説は、城に関する書籍を多数手がける、かみゆ歴史編集部代表の滝沢さんです。まずは、秀吉が城主を務めた姫路城です。現在の白く美しい姿とは全く違っていたといいます。姫路城といえば、世界文化遺産にも登録され、別名「白鷺(しらさぎ)城」とも呼ばれる白さが特徴です。
佐々木亮太アナウンサー
「THE城という感じのイメージがありますよね。(秀吉が城主だった)当時の復元を見てみますと、全然白鷺ではないですね」
かみゆ歴史編集部代表 滝沢弘康さん
「そうですよね。秀吉時代の天守は三重の天守だったと言われています。下見板張りという板張りが張られているので、ちょっと黒っぽいのが印象的ですね」
佐々木アナは、現在の姿に仕上げたのは誰なのか尋ねます。
佐々木アナ
「ここから誰が、そういうふうに仕上げていったんですか?今の姿に」
現在の姫路城は、壁や屋根の瓦など、すべてに白いしっくいが施されています。秀吉が城主になった1580年以降は、白とは正反対の黒っぽさが特徴でした。
滝沢さん
「その当時は信長が気に入った家臣にしか天守を作らせなかったと言われているんですね」
天守がある城は、信長の安土城や明智光秀の坂本城などに限られていて、秀吉の姫路城の天守は当時としては最先端でした。関ヶ原の合戦の後、姫路城に入ったのは池田輝政です。姫路城が現在のように豪勢で巨大な城になった理由について、滝沢さんはこう説明します。
滝沢さん
「関ヶ原の合戦の後、池田輝政という大名が(姫路城に)入ります。姫路って土地柄非常に重要な土地で、中国地方、九州、四国にはたくさんの外様大名がいたんですけど、その外様大名を抑える、または見張る役割として、池田輝政は姫路の地を与えられるんですね。山陽道を通る外様大名たちに幕府の権威を見せつけるために、姫路城はあそこまで豪勢で巨大なお城になったと言われています」
巨大な大阪城
続いては、秀吉時代の大阪城です。現在の大阪城は、徳川家の命令で新たに築かれたものです。復元された秀吉時代の大阪城は、現在とは大きく違う姿をしています。
佐々木アナ
「秀吉時代の大阪城の復元を見てみますと、全然違いますね」
滝沢さん
「そうですね、黒漆が塗られていたと言われていまして、そこに家紋ですとか模様が天守に飾られていたと言われていまして」
秀吉の大阪城は1583年に築城が始まり、天守と本丸は約2年で完成しました。信長時代に築かれた安土城よりも大きかったといいます。
佐々木アナ
「これ、しかも相当大きい感じしますけれども、当時やっぱり最大?」
滝沢さん
「そうですね。信長時代に作られた安土城天守がそれまででは一番大きい天守だったんですが、それをはるかに凌ぐ大きさだったと言われていますね」
推定30メートルほどだった安土城に対し、大阪城は約40メートルの高さを誇ったと考えられています。
佐々木アナ
「信長を超えるんだという、そういう思いがあったんですかね?」
滝沢さん
「そうですね。秀吉が大阪城を築いたのは山崎の戦いで、明智光秀を倒しまして、その後一旦、山崎城というお城を築いて、そこが居城になるんですけど、その翌年に柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破って、信長の後継者レースのトップに立つわけですよね。おそらく自分が信長の後を継ぐんだと。そして天下に名乗り出るんだというシンボルとしての大阪城だったのではないかなとは思いますね」
徳川に埋められた秀吉城郭
秀吉が亡くなった後、大阪城は大阪の陣で焼けて失われました。その後、江戸幕府の直轄地となり、残った石垣などは幕府によって埋め立てられます。天守の場所も規模も変え、徳川家が新たな大阪城を築きました。ところが近年、秀吉時代の石垣が見つかります。昭和30年代に本丸の地質調査をしていたところ、地面のかなり下から発見されたといいます。
滝沢さん
「それが昭和30年代に地質調査がされまして、たまたまなんですけど本丸を調査している時に、地面のだいぶ下から石垣が発見されまして調査を進めるごとにちゃんと石垣がつながっているなというのが分かるようになって」
発見された豊臣時代の石垣は、徳川家が再築した大阪城の石垣とは造りが違いました。
滝沢さん
「秀吉時代はお城の用語で野面積みというんですが、基本的には自然の石をそのまま積んでいく。その積むのは石工さんの熟練した技術があるわけなんですけど、それに対して私たちが今見る大阪城の石垣というのは、基本的には四角く加工されたものを順序立てて積んでいく」
佐々木アナ
「ピシっと隙間なくみたいな」
滝沢さん
「そうですね」
石材を四角く加工し、隙間なく積む「切り込み接ぎ」と呼ばれる技術は、家康の時代になって急速に発展しました。
滝沢さん
「家康の時代になって急速に発展していく技術ですね」
大名が集結 肥前名護屋城
続いては、日本中の大名が憧れたという、秀吉の最高傑作ともいわれる肥前名護屋城です。現在は崩れた石垣が残っていますが、当時は大阪城にも劣らない巨大な城がありました。朝鮮出兵のために築かれた肥前名護屋城で、秀吉は政治的な業務も行っていました。全国の大名が周辺に陣屋を築き、当時の首都機能は大阪や京都から肥前に移っていたといいます。
滝沢さん
「全国の大名が肥前名護屋城の周辺に陣屋を作って、当時の首都機能が大阪や京都から完全に肥前に移っているということなんですよね」
佐々木アナ
「オールスターですよね?」
滝沢さん
「そうですね」
徳川家康や前田利家、伊達政宗もこの地に集結しました。秀吉は彼らに権威を見せつけ、もてなすため、黄金の茶室などを設けたといいます。
滝沢さん
「黄金の茶室とかですね、つくられたと言いますし、一方で草庵茶室と呼ばれていますが、竹でできた非常にひなびた茶室なんかもつくっていまして、おそらく秀吉は自分の気分と相手の大名に合わせて黄金がいいのか、ひなびた空間がいいのかというのを使い分けていたと思うんですよね」
さらに大名たちを驚かせたのが、今も残る「鏡石」です。
滝沢さん
「大体、虎口(こぐち)という城の入り口に見せびらかすように置かれているものなんですけど、あれは秀吉時代から家康時代のお城の特徴・トレンドなんですよね。実際にその城に登城する自分たちの家臣とか、他の大名に対して、城主の権威・権力を見せるために、ああいった大きな石を使ったと言われています」
伊達政宗も肥前名護屋城に感銘を受けたようです。その後、政宗は仙台の地を開き、仙台城を築きました。以前は、仙台城の大手門は肥前名護屋城の門を解体して運んだという伝説もありましたが、最近の説では、肥前名護屋城の門をまねて作り直したといわれています。
滝沢さん
「伊達政宗もやはり肥前名護屋城を見ていたく感動したようで、その後、政宗は仙台の地を拓いて仙台城を築くんですが、その仙台城に大手門を築くんですね。以前はその大手門は肥前名護屋城の門を解体して運ばれたんじゃないかと言う伝説も残っていたんですが、最近の説だと肥前名護屋城にあった門を真似て作り直したのではないかと言われていますね」
佐々木アナ
「やっぱりそれぐらい影響があったんですね!」
滝沢さん
「そうですね」
幕府が完全破壊した理由
1598年、秀吉が亡くなると朝鮮出兵は終結し、肥前名護屋城も廃城となりました。なぜ、現在は石垣が崩れた状態で残っているのでしょうか。
滝沢さん
「よく言われるのはですね、家康時代になって、秀吉の遺構である肥前名護屋城はもう無用の長物なので潰してしまったという言われる方もいますが、(三代将軍)家光の時代に九州で島原の乱って起こりますね」
佐々木アナ
「あの有名なキリシタンのやつですね」
滝沢さん
「天草四郎が始め、一揆勢が立てこもったという」
彼ら一揆勢が立てこもったのは、すでに廃城となっていた原城でした。
滝沢さん
「そういった城に一揆勢が立てこもるということで、やはり幕府軍は相当苦戦するわけなんですよね。それで、島原の乱が終息した後、廃城という城でもそのまま残しておいたら危ないと、また使われてしまうということで、特に九州のお城は、城の言葉で破却というんですけど、あえて城を壊すということが行われます。その跡がですね、肥前名護屋城は大変大規模に行われていまして、で面白いなと思うのは文化財として石垣が崩されたというのも城の歴史の一つではありますので、崩れたものは崩れたまま保存しましょうというところで、見どころではないかと思いますね」
鳥取城の兵糧攻め
最後は、築城だけでなく城攻めにも長けていた秀吉が攻略した鳥取城です。かつて「ねずみ1匹通さない」といわれた鉄壁の要塞でした。
滝沢さん
「秀吉は築城名人でもありますけど、城攻めの名人でもありまして。ただ、秀吉自体は城攻めといっても力攻めをするわけではないんですよね。城をぐるっと包囲をして持久戦に持ち込んで、相手が根を上げるのを待つという戦い方がとても上手かった人物になります」
籠城する敵を囲み、食料などの補給路も封鎖する兵糧攻めを得意とした秀吉。鳥取城の攻略では、太閤ヶ平(たいこうがなる)という陣城、いわば本陣を築いていました。
(「グッド!モーニング」2026年10月2日放送分より)
この記事の画像一覧
