今から22年前の1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災から学ぶ、復興とはなにか。さまざまな立場から震災を体験した人々の言葉より紐解いていく。
未曾有の大震災の4日後、105時間ぶりに奇跡的に生還した吉田清三郎さん(当時79歳)。
その当時、レスキュー隊として救助活動にあたっていた福永博昭さんは「1人の人を助けることはできましたけど、1人の人が亡くなった。これに接したことの方が残念。今でも胸に残っていて、もう少し早く行けば何とかなったのではないか」と当時を振り返った。
定年まで消防隊で励んだ福永さんはその後、自身の体験が地元の教材冊子に取り上げられた。その中には「感じとれる心・大切に」「人を助ける仕事をすることもそこにハート(心)がないと続けることはできません」との言葉が書かれている。
福永さんは「人はハートがあれば絶対に人はついてきてくれます。何とか助けてくれます、何とか頑張れるんです。1人の人を助けることが出来たのも住民の皆さんのハートがあったから私たちは活動できて、その時思った、その時感じた、その時思い通したハートを1人でも多くの方に伝えていきたい」と、当時の体験で得たことを力強く語った。
大震災によって多くの命が失われた一方で、新しい命も誕生した。地震発生から3日後の1995年1月20日、神戸市兵庫区に住む右近裕子さんは女の子を出産した。子供の名前は華子。「いつかこの神戸の街にも綺麗な華が咲くときがきてくれるだろう」と願いを込めてつけられた。
あれから22年、震災と向き合い寄り添ってきた華子さん。「何か期待をしてくれていたんだなって認識はあったのでそれに応えないとでもすごく重いなと思っていました」と、名前の重さを感じ悩む時期もあったそうだ。
しかし、中学時代からの親友の誘いが新たな一歩につながった。日本を再び震撼させた東日本大震災が発生してから2年が経った2013年5月、華子さんは大学1年生の時ボランティア活動に参加したそうだ。
「自分はすごく大きな勘違いをしていたと思った。神戸で生まれて、名前もこういう名前で自分の周りにいる人よりもちょっとは震災に近い人間だろうといい気になっていた。(震災を)体験してないのによくそんなに思い上がっていたなってそんなタイミングで生まれてきただけなのに恥ずかしいって思いました」と、東北の人々との出会いが華子さんの考え方を変えた。
そんな華子さんは「復興の役に立ちたい」と、ボランティアの仲間と一緒に毎月、東日本大震災月命日の11日だけ開店する小さな食堂を始めた。
食堂の名前は「きっかけ食堂」。「東北から取り寄せた食材で、料理とお酒を提供しその味を通して東北や震災について考えるきっかけを作りたい」との思いでスタートしたという。
毎月11日は“重たい”という印象があるが「その重たいという感覚が変わったらいいなと思っていて、美味しいものが食べられる日とか、私たちに会いに来られる日かもしれない、ちょっと違う視点を持ってもらうことができたらそれは1つの成功だと思う」と、華のような笑顔で語った。
また、震災で友人を失い、自身も実家で被災したお笑いグループ安田大サーカスの団長・安田裕己さんは「当時20歳だったが、地震の大きさは飛び跳ねるほど。家具を押さえるどころではなく、自分の身体の制御もできない」と震災の凄まじさを語る。
その後、家を出たものの「甲子園口駅の前のビルが倒れていて、そこに僕の同級生が寝ていて、誰の声か分からなかったが必死に『頑張れ!』と呼びかけた。でも、同級生は亡くなっていた。顔の原型が無いくらい圧迫されて、ボコボコ。葬式するのも会場がない状況だった」と語った。
安田さんは「人間って1人では生きていけないんだな、と。なので、またこういうことがあったときは助け合いもしないといけないでしょうし、自分自身も頑張らないといけないなと思います」と懸命に語った。
レポーターの所太郎氏は復興について「非常に難しい。さまざまなことをはらんでいたと思うが、少なくとも、当事者ではない方々にとって、そこで何が実際に起きていたのか。それを知るというのが非常に大事なことなのではないか」とコメント。「復興というものに関して我々が何かできることがもしあるとしたら、私は現場に行くことだと思う。何年経とうが、もう一回その現場に行って、自分の目に何が見えて、自分の耳に何が聞こえて、自分が何を思うのかというのを現場に立って考えてみるという、そこから始まっていくんじゃないか」と、述べた。
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