たぶん、というか、ほぼ間違いなく、自分が生きているうちにこれ以上の逆転劇は見られないだろうな。なかば呆然としながら、そんなことを考えた。
バルセロナ対パリ・サンジェルマン。6-1。2試合トータル6-5。
バルセロナに留学し、長くバルサTVのコメンテーターもやらせていただいていたので、当然、わたしにとってバルサは特別なチームである。そんなチームが、世界的に見ても歴史的に見ても常識的に見ても、まずありえない大逆転を演じたのだから、嬉しくないはずはない。
ないのだけれど──。
わたしにとってのバルサは特別な存在ではあるものの、しかし、一番好きなチーム、ではない。我が家の門扉には大好きなスポーツチームのエンブレムが2つ刻まれているのだが、そのうちのひとつはTとHの組み合わせ、もうひとつは菱形の紋章で囲われたBである。
つまり、阪神タイガースとボルシア・メンヘングラッドバッハ。
なぜ阪神が好きなのかを説明すると長くなるのでここでは割愛するが、グラッドバッハが好きだった理由は簡単に説明できる。
強かったから。
21世紀に生きる子供たちがバルサやマドリー、プレミア・リーグの強豪に憧れるように、66年生まれのわたしは当時世界最強と言われたブンデスリーガに憧れ、74-75シーズンから3連覇を達成していたグラッドバッハに憧れた。ライナー・ボンホフやアラン・シモンセン、ヴォルフガンク・クレフに憧れ、プーマでコンプリートされたユニフォームとスパイクに憧れた。
巨人と阪神が宿命のライバルだったように、アディダスの象徴でもあるバイエルンとのライバル関係は未来永劫続くものだと思い込んでいた。
ちょうど、バルサとマドリーがそうであるように。
だが、月日は流れ、日本に限らず、ドイツでさえも「ボルシア」と言えば「グラッドバッハ」ではなく「ドルトムント」を示すようになった。近年、グラッドバッハも目ざましい復活を遂げつつあるが、かつてのようにバイエルンと対等の関係に立つと見ている人は、グラッドバッハの関係者も含めて、いない。
あれほど強かったグラッドバッハは、いったいなぜ、そしていつ、王者としての資格を失ったのか。理由はともかく、その時期であれば、明確に指摘することができる。
78年4月29日である。
前人未到の4連覇に挑んでいたこのシーズンのグラッドバッハは、チームにとってかつての象徴であり恩師でもあるヘネス・バイスバイラーが率いるケルンとの激しいデッドヒートを繰り広げていた。最終節を迎えた段階で、両者の勝ち点はまったく同じ。ただし、得失点差ではケルンが10リードしていた。
グラッドバッハが優勝するためには、最低でも11ゴールが必要だった。
最終節の相手は、後に名将と呼ばれることになるオットー・レーハーゲルが率いるボルシア・ドルトムント。この当時は強豪と呼ばれるような存在ではなかったが、ドルトムント・ホームでの試合は3-3の引き分けに終わっている。グラッドバッハにとっても、簡単な相手ではなかった。
だが、試合は信じがたいものになった。グラッドバッハは、12-0で勝ったのである。
最下位のザンクト・パウリと戦ったケルンが5-0で勝ったため、グラッドバッハは優勝に3ゴール届かなかった。
それでも、あの時は多くの人が思ったはずだった。グラッドバッハは4連覇を逃してもまだ強い。これからも彼らの時代は続くはず──と。
予想は、外れた。
冷静に考えてみれば、最終節で得失点差で10もの差をつけられていた時点で、グラッドバッハの黄金期は終わっているのである。だが、あまりにも衝撃的な12-0が、彼らが内包していた問題点の解決を先送りにしてしまった。放っておいても、競争力は維持できるはずだと多くのチーム関係者が思ってしまった。
それが、命取りになった。
パリ・サンジェルマンを相手に4点差をひっくり返すのは、むろん、ほぼ不可能に近いことだと言っていい。それをやってのけたのだから、しかもアウェーゴールを許しながらの大逆転だったのだから、バルセロニスタが熱狂するのもよくわかる。
だが、グラッドバッハの転落を目の当たりにした人間からすると、着目すべきは第二戦で4点差をひっくり返したことではなく、第一戦を0-4で落としたことだと思うのだ。
本当に強かったころのバルサは、断じてこんな負け方はしなかった。ほとんどの場合、負けは1点差で、内容では相手を圧倒しているのが常だった。
パリでのバルサは、4点を奪われただけでなく、内容面でも完敗だった。
最終節で10ゴールが必要な状況に追い込まれていたグラッドバッハのように、全盛期であればありえないバルサだった。
もちろん、70年代のグラッドバッハと、21世紀のバルサとでは時代も違えばチームの財力もまるで違う。カタルーニャのシンボルが沈没する、なんてことはさすがにないだろうとは思う。
ただし、何年か、何十年かあと、グァルディオラが築いた時代はいつ終わったのかという問いがなされたとしたら、多くの人は17年3月8日、カンプ・ノウで起きた奇跡の夜をあげるのではないか、という気がする。
あれが、ろうそくの最後の輝きだったのだ、と。
文・金子達仁