現地時間4月2日にフロリダ州のシトラス・ボウルで行われたプロレス団体WWEの祭典「レッスルマニア33」のメインイベントで、ロマン・レインズに敗れたジ・アンダーテイカーが引退を示唆し、会場は感傷的なムードが漂った。
ノー・ホールズ・バード・マッチ(反則裁定無しのなんでもありのルール)で行われたこの一戦。テイカーは必殺技のツームストーン・パイルドライバーやヘルズゲートを繰り出すが、レインズを仕留め切れず、レインズのスーパーマンパンチやスピアーを何度も喰らいながら何度も立ち上がったが、4発目のスピアーを決められて敗れた。
試合後、会場を見渡したテイカーはオープンフィンガーグローブ、ジャケット、帽子をリング中央に置くとリングを後にした。そして、7万5245人の観衆の「Thank You Taker!」のチャントと鐘の音が鳴り響く中、レッスルマニア33は終幕した。
「地獄の墓堀人」「暗黒の魔王」「デッドマン」など数多くのの異名を持つ、ジ・アンダーテイカーは、1984年のブルーザー・ブロディ戦でプロレスデビュー。初期のWCWでミーン・マーク・キャラスのリングネームでダニー・スパイビーとのスカイ・スクレイパーズなどで活動した後、1990年3月にパニッシャー・ダイス・モーガン名義で新日本プロレスに来日し、スコット・ホールと組んで、マサ斎藤&橋本真也のIWGPタッグ王座に挑戦している。
1990年、ホーガンの紹介でWWF(当時)と契約したテイカーは、古い西洋映画の葬儀屋をベースにした怪奇派ヒールのケイン・ジ・アンダーテイカーに変身し、1990年11月22日のサバイバー・シリーズにてテッド・デビアス軍のメンバーとしてWWFデビューを果たす。
1991年からはハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアーなどトップ選手のライバルに抜擢されたテイカーは、同年の「サバイバー・シリーズ」でホーガンを破りWWF世界ヘビー級王座を獲得。これは当時の最年少記録であり、当時のアンダーテイカーは1991年12月から1993年9月までの間はシングル戦では無敗であり、これは1990年代のWWE最長記録となった。
テイカーは、棺桶マッチ(相手を棺桶に入れた方が勝ち)を得意にしていたが、1996年のマンカインドとの一戦は、史上初の生き埋め戦(墓場の穴に相手を投げ入れ、土をかけて生き埋めにしたら勝ち)として行われた。テイカーは試合には勝利したものの直後にジ・エクスキューショナーに襲われ、生き埋めにされてしまう。そして、テイカーが生き埋めにされた場所に雷が落ち、土の中から手が現れるというホラー映画さながらのシーンが演じられた。
1998年の「キング・オブ・ザ・リング」で行われたヘル・イン・ア・セル戦(リング上までも五面金網で囲む)で、足首を剥離骨折した状態で出場したテイカーは、マンカインドを金網の上から二度も転落させ、さらに大量の画鋲の上にチョークスラムで叩き落すという、プロレス史上に残る壮絶な試合を繰り広げた。
長年WWEのスーパースターとして君臨してきたテイカーを「伝説のレスラー」たらしめているものの1つとして挙げられるのが、「レッスルマニア不敗神話」だ。1991年のジミー・スヌーカ戦に勝利して以来、2014年にブロック・レスナーに敗れるまで21戦無敗記録を誇った。これはアンダーテイカーがWWEを支えてきた証であり、今後このような記録を打ち立てるレスラーは出てこないだろう。