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 街でよく見かける、あのユニークな似顔絵の数々。その人の持つ顔の表情や特徴を独特な手法で捉えた、「カリカチュア」と呼ばれるこの手法は、ある一人の男が日本に持ち込んだものだ。

 それがカリカチュア・ジャパン代表取締役兼代表アーティスト・Kageだ。

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 「絵で一人でも多くの人を幸せにして絵で食べていける社会」を理想に掲げ、フリーランスや個人事業主が一般的だった「絵描き」を束ね法人化。全国に27店舗を展開、年商8億円の企業に育て上げた。所属の絵描きたちは正社員として雇用している。

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 自身も2007年にカリカチュア世界大会で優勝するほどの腕前だったKageだが、その身体は服の上からでもわかるほど、がっしりした筋肉に覆われている。実はプロレスラーを目指していたほどの肉体派で、なんとレスリング・浜口京子選手のスパーリングパートナーとして汗を流していた過去を持つ。

 なぜそんな彼が、レスラーから絵描きへ転身したのか。

 「もともと子供のときは絵が得意じゃなかったんです。それどころか、当時の美術の成績は1でした」。実はKageが「絵」に開眼するまでは壮絶な道のりがあった。

■アニマル浜口父娘との日々

 1977年に東京・神田で生まれたKageは、幼いころから重度の喘息に悩まされ、満足に学校にも通えなかったという。

 「風邪を引くと必ず入院っていうレベルで、小学校のときは入院している方が長かったですね。本当に何度も死にかけました。寝ている自分を上から見たこともありますよ」。

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 長い入院生活の中で出会ったのが「絵」と「プロレス」だった。

 「点滴しているから片方の手しか自由にならない。だから退屈しのぎで絵を描いたり、後は本を読んだりしかなくて」。

 中でもKage少年の心を捉えたのが、プロレスラー前田日明が書いた『パワーオブドリーム』という本だった。「いつか僕も強い男になりたい」。Kage少年は病床でプロレスラーになることを決意する。

 体を鍛え、5年かけて少しずつ喘息を克服していったKage。高校ではレスリング部に入部した。それだけでは飽き足らず「気合の鬼」ことアニマル浜口に弟子入り。

 今でこそユニークなキャラクターで知られる浜口氏だが、当時は現役でリングに上がっており、指導も熾烈を極めた。

 「こんなに腕が太い人いるんだ…って。もう象の子供くらいの腕あるんですよ。当時は本当に怖かったです」。

 そこで同い年の浜口京子とも出会い、スパーリングパートナーに。

 「当時は京子さんの方が僕より10kgくらい重かった。力も強かったし。何より獣のような目をしてるんです」。アニマル浜口のもと、京子とKageは切磋琢磨し、レスラーとして成長していった。「一生モノの時間でした」。

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 Kageには今でも忘れられないエピソードがある。それはアニマルが現役復帰した時のこと。

 「いつも6時頃にジムに入るんですが、僕がジムに行ったら会長(アニマル浜口)がヒンズースクワットをしてるんです。練習が10時半に終わったとき、会長はまだヒンズースクワットやってるんです」。

 浜口の体からは煙が立ち上り、ジムの窓ガラスがすべて曇るほどだった。「しかも回数を数えてるんですよ。7000回やったって言ってました」。

 「なぜそこまでやるのですか」とKageが尋ねると、アニマルはこう答えた。

 「それくらいやらなかったら、ビッグバン・ベイダーの前には立てないよ」。

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 アニマル父娘にレスリングの技術に加えて、教わったのは「気持ち」だった。

■アメリカのショッピングセンターで似顔絵に出会う

 高校卒業とともに本格的にレスラーを目指し渡米、小兵ながらもアマチュア大会に出場するようにもなった。

 そんな矢先、怪我をしてしまう。「おカネもなくてね…だからショッピングセンターを右から左に行ったり来たりして」。

 ある日のこと、Kageはショッピングセンターで絵描きの周りに人だかりができているのを見かける。

 「人種も肌の色も関係なく盛り上がっていて。あんなの描けたら楽しいだろうなと思いました」。

 そこからKageの絵描きとしての歩みが始まる。ひたすらその絵描きの後ろに立ち、真似することを始めた。(NBA選手の)デニス・ロッドマンに憧れて髪の色を緑にしていたせいか、アトリエへ招かれ、手伝いを始めることになった。しかし、報酬はブリトーだけだったという。

 ほどなく、近くのホテルで開かれるイベントに欠員が出たことから派遣されることになった。絵描きとしての初舞台だ。だが、結果は散々だった。

 「自分でも似てないな、と思いながら描くこともあったくらいで…」。

 なんとか3時間半のイベントを終えて帰ろうとしたところ、拍手が聞こえてきた。

 「お前、よく日本からきたな、有名になったら高く売るからな!ありがとう」

 声援に思わず涙してしまった。

 「10歳から格闘技をやってきて、人を倒すことしか考えていなかった。でも『ありがとう』ってすごい言葉だぞ」と気付かされた。「絵描きとして頑張ろう」。Kageはレスラーから絵描きへの転身を決意する。

■カップルの主従関係を見抜いて構図に盛り込む

 アメリカに滞在した6年間で500件超のイベントに参加、カリカチュアの本場で腕を磨いたKage。謎のアジア人絵描きとして名を上げていった。30歳を前にした2002年に日本に帰国、東京・お台場のジョイポリスに最初に店を構えた。

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 「忘れられないですね」という初日は、客が5人しかこなかった。しかもそのうち3人は自ら頼み込んで描かせてもらった客。当時の日本には、「似顔絵を描いてもらう」という文化はあまり浸透していなかった。そこでKageは、客とのコミュニケーションに重点を置くことを試みる。

 「どう描いてほしいのか、何を考えているのか、あとはお客さん同士の関係性ですね。3人組なら、誰がボケなのか、ツッコミなのか。誰が笑い役なのか。その場合はどういう構図にすれば面白くなるのか。カップルでも均等のサイズで並べるんじゃなくて、お互いの言葉を聞きながら主従関係を見抜いて、構図に盛り込んだり、興味があるものを聞いて、二人の共通の趣味になっているものを絵の中に少しだけ盛り込んだり」。

 あの手この手で喜んでもらう努力をした結果、客足は少しずつ増加。徐々に人通りの多いところに店を出せるようになっていった。そしてKageは「似顔絵で食べていける社会を作る」という目標に向けて動き出す。絵描きだけでなく、経営者としての挑戦が始まった。

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 カリカチュアをマスターしている絵描きが不可欠ということで、美術系の学校を回って自社を紹介。学校でプロ養成コースも設立した。

 ゼロからでも2カ月あればある程度の見込みは立つというコースだが、その内容は厳しい。

 「課題で、1週間で下書き100枚とかありますからね」。

 100枚描かせてもらえるようになることで、似顔絵描きとしての「対人恐怖症」を克服するのだという。卒業の際には生徒同士で順位付けを行わせる。単に絵の上手い下手ではなく、人間的な魅力も踏まえた順位付けになるのだ。こうして必要なスキルを身につけ、カリカチュア・ジャパンに入社すれば、そこからは「正社員」だ。

 しかし、この正社員制度も、当初は上手く機能しなかったという。

 「人件費が倍になってしまったんです。導入してから5カ月は赤字でした」。そこから査定のタイミングや、能力に応じた給与制度などを緻密に策定、制度化までに1年を要した。

■「数字ばかり追い求めることはしない」

 2011年3月11日の東日本大震災で大きな被害を受けた東北地方。Kageは避難所や仮設住宅に足を運び、被災者の似顔絵を描いてきた。

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 中には、家族を全員亡くした女性がいた。残された写真は、すべてバラバラの、小さなものだけ。Kageは、ならば、と家族が集合した似顔絵を描くことを願い出た。

 「長男がやんちゃ坊主で…娘はスイカが大好きでね…」。遺族の女性はぽつりぽつりと家族の思い出を語り始めた。「完成した絵を見てね、女性も僕も泣きながら笑ってたんですよ」。

 たかが似顔絵、されど似顔絵。「これが私の未来のお守りになる」という女性の一言で、似顔絵の持つ可能性に改めて気付かされたという。

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 現在、年間約27万人の作画を行うまでに成長したカリカチュア・ジャパン。経営者として、売上高や店舗数などの目標は掲げているが、あまり数字ばかり追い求めることはしないという。それは「お客様の笑顔が何よりも大事」と感じるこうした経験があったからだ。

 一人の絵描きとして、一人の経営者として、人々を笑顔にできるのか。Kageがいつも似顔絵を描くときに忘れないようにしているのが、人生の師・アニマル浜口の「一瞬は一生」の言葉だ。それは格闘家から絵描きになっても変わらない。一人の男は、今日も大きな笑顔をスケッチブックに描く。(AbemaTV/『創業バカ一代』より)

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偉大なる創業バカ一代 | AbemaTV
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極めたければバカになれ!創業バカ一代
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