日本のスイーツ業界で、最も有名なパティシエの1人として名前があがるのが鎧塚俊彦氏(51)だ。自らの名前を冠した「トシ・ヨロイヅカ」のオーナーシェフを務める。
まだパティシエという職業があまり知られていなかった時代に、単身ヨーロッパに渡り修行。権威ある賞を受賞し、世界に注目され、日本人パティシエの先駆者となった。さらに、女優・川島なお美さんとの結婚、なお美さんの死去。仕事、プライベートともに激動の人生を歩んできた鎧塚氏が、自身の軌跡とスイーツへのこだわりを語った。
■宝石のようにきれいなケーキは嫌い
1965年に京都府に生まれた鎧塚氏。祖父も父も家具職人という職人一家で、子どもの頃から大学に行くという選択肢はなかったという。鎧塚氏は、「高校生くらいになってフランス料理をテレビで見て、ああいうものは社長にならないと食べられるものじゃない、でも自分が社長になるなんて思ってもいない。でも、どうしても食べたい。そうすると作る方に回るしかない」と、料理人を志した経緯を語る。製菓の専門学校を経てホテルのレストランに就職したのち、スイーツの新たな可能性を求めてヨーロッパへ渡った。
鎧塚氏は、「この世界に入ったときから、いずれはヨーロッパで修行してみたいと思っていた」と、当時を振り返る。ツテがないなか、講習会で東京に来たスイスのシェフに助手で付いたところ、シェフから「来るか」という話をもらい、29歳でスイスのシャッハウゼンに渡った。
意気込んで渡ったスイスだが、まず言語の壁にぶち当たる。「フランス語は自分なりに勉強していたんです。しかし、スイスの公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語で、6割がドイツ語。周り全員ドイツ語ばっかりなんです。全然わかんない。日本からすぐ辞書を送ってもらって、そこからでした」と、鎧塚氏は話す。
さらに、日本人は労働ビザが取れないことを知り、3カ月以内に日本に帰らなければならない状況のなか、ビザを取るための算段を考えた。鎧塚氏は、「トシ・マンデルクローネが爆発的に売れましたが、売れたことよりも、毎日仕事終わった後にどうしたらいいのかと悩んで、その努力を見てくださっていたオーナーが、『何としてでも』ということでビザを取ってくれた」と、ビザ取得の経緯を語った。
鎧塚氏は、ビザが取れるまで“華やかな”ケーキを作っていたという。「シャッハウゼンという田舎町で、お客さんがワーワーと集まって『すごいぞ』と。僕もどんどんエスカレートして、コンクールのような飴細工も乗せて。お客さんはさらに『すごい』と言うけど、通り過ぎていくんです。美しいとは思っても食べてみたいとは思わない。宝石のようにきれいなケーキって嫌いなんです。“美しい”の後に“食べてみたい”がこないとダメ。そうして、試行錯誤して生まれたのが『トシ・マンデルクローネ』。お店に並べたところ、すごく売れました」と、代表作が生まれた経緯を語った。
■「絶対にうまくいく」と思った“コロッケ理論&寿司屋方式”
ヨーロッパから帰ってくる頃には、日本では「すごいヤツが帰ってくる」と話題になっていたという鎧塚氏だが、「僕、コロッケが大好きなんです」と唐突に語る。「市場で、『おばちゃん、コロッケ』って言ったら目の前でジュッて揚げてくれる。揚げたてをハフハフ食べるあの旨さといったら。トリュフやカニクリームを入れるより原点に戻る、コロッケ持論に戻ろうと思いました」と、日本の展開にあたっては、スイーツを“出来立て”で出すことを考えた。
そうして恵比寿で始めたのは、カウンターに6席しかないお店。目の前で注文を聞いて、目の前で作って出した。鎧塚氏の「スフレ」は、粉を使わず卵白だけで膨らませるためすぐに萎んでしまうが、カウンターなら“フワッフワ”の状態で出すことができる。鎧塚氏が「カウンターデザートは僕の真骨頂」と語るように、ミッドタウン店にも京橋店にも、寿司屋のようなカウンターを残している。
「新しいとか古いとか、人がやってるとかやってないとかではなくて、自分がやりたいことをやって、たまたまそれが他にはなかった。もともとパティシエとは、人に喜んで頂くのが好きな人間がなっているんです。カウンターは目の前で直に声が聞ける。僕らにとっても嬉しい職場だと思います」と、鎧塚氏は語った。
■スイーツは心の栄養、心を幸せにする
自分のやりたいことを実現した鎧塚氏だが、2011年3月11日の東日本大震災のときに考えが変わったという。自身が阪神大震災にあった経験からすぐに炊き出しに動いたが、想定していたおにぎりやカレーではなく、「デザートを作ってくれ」と料理人の大先輩から言われたそうだ。
「何言ってるんですかと。震災直後にケーキ作ってたら失礼ですよと。でも『トシちゃんはケーキを作ってくれなきゃだめだ』と言われた。わかりましたと、生地や生クリームを持っていってケーキを作ったら、被災した子どもたちが大喜びしてくれて。そうしたら、先輩シェフが『スイーツってこういうもんなんだよ』と言ってくださった。料理が身体の栄養ならば、スイーツは心の栄養なんだと。スイーツは心を幸せにする、ということを改めて勉強させていただいた。今まで以上に、自分の仕事に対する見方が変わりました」と語る。
そんななか、「自分が一から作った食材のスイーツを食べて欲しい」という思いから生まれたのが「一夜城ヨロイヅカファーム」だ。神奈川県小田原市にあるこの農園は、もともと耕作放棄地で電気もガスも水道もないところ。たが、畑から全部やりたいと考え、オレンジをはじめとする様々な果物を一から栽培し始めた。勝算はまったくない状態でのスタートだったが、そんな鎧塚氏の背中を強く後押ししたのが、妻の故・川島なお美さんだった。
話を聞いて土地を見に来たなお美さんは、「あなた、絶対に成功する。やったほうがいいよ」と断言したという。その話を秋元康氏にしたところ、「それ大事。なお美さんは昔から根拠のない自信を持っているんだ」と言われたそうだ。「根拠のない自信っていうのは、アイドルにはもの凄く大事らしくて、女房は随分前にアイドルを卒業していたんですけど、そこは残っていたようですね」と、鎧塚氏は話す。
■鎧塚氏、なお美さんは「まったくブレない人でした」
鎧塚氏は、なお美さんを「まったくブレない人でした」と表現する。初めて会ったのはテレビ番組で、「対決モノで、女房が審査員だったんです。そのときは楽屋に挨拶も行かず、それで終わりでした」と、その日は何もなかったという。ところが、その後なお美さんの自宅で開かれた荒川静香さんの誕生日パーティーで、なお美さんが番組のディレクターを通して鎧塚氏にケーキを依頼。そこに、鎧塚氏が自らケーキを運んだ。
「そこからはすごく早かった」と鎧塚氏は話す。なお美さんに、「週刊誌に“熱愛”と書かれるのは嫌だから、知れ渡る前に先制攻撃で婚約しましょう」と言われたという。また、当時、鎧塚氏が住んでいたワンルームマンションを訪れて、「あら素敵な部屋ね。玄関入ったらすぐベランダですね」と言うなお美さんに「失礼だな」と感じたというが、なお美さんはその後も部屋を訪れて掃除をした。掃除、洗濯、料理までこなしたなお美さんについて、鎧塚氏は「全部サポートしてくれてましたね。今も本当にいろんな方に可愛がっていただいているんですが、その人脈が広がったのは女房のおかげです」と振り返る。
さらに、結婚のときはなお美さんの“ブレない”意向が強く出た。例えば、プロポーズにもこだわりがあったといい、「フランスのアルザス地方にある三ツ星レストランがあって、レストラン前の小川に1日1組だけ小舟を浮かべて食事ができるんです。『絶対あれに乗って、そこでプロポーズして欲しい』ってずっと言うわけですよ。そしたらそこでプロポーズしなきゃいけないじゃないですか」と、鎧塚氏は苦笑する。
鎧塚氏はその希望どおり、プロポーズをしようとした。「誘導尋問はこっぱずかしいので、ちょっと“外す”ために、本命とは別にオモチャの指輪を用意したんです。でも、女房の方から先に、『おばあちゃんになってもお姫様だっこしてね。これ、私のプロポーズだから』と。僕、言うきっかけが掴めなくて…笑 僕も『一生かけて幸せにするよ』というようなことを言いました」と、なお美さんから先にプロポーズされたことを明かした。用意したオモチャの指輪はその後渡したが、なお美さんはすごく喜んでいたという。
そんな2人で成功を夢見て、語り明かした場所が「一夜城ヨロイヅカファーム」だった。一角には、なお美さんの1周忌に合わせて造られた慰愛碑が建っている。
慰愛碑には、なお美さん直筆の遺書が刻まれている。
私は蝶となって咲きみだれるお花から花へと舞い
毎年咲く桜となって花ふぶきをお客様に散らし
たわわに実る果実となってあなたの作品として
美味しくお皿の上にのります
美しく生き生きしたファームガーデンは私の夢です
その夢をかなえて下さい
今までありがとう
なお美より
鎧塚氏は、「生き生きとしたファームガーデンは私の夢ですと書いてありますので、もっともっといいモノにしていきたい」と語った。
最後に、鎧塚氏は「菓子屋は世界一幸せな仕事」と話す。「菓子屋は常に人の幸せを演出できる仕事。一生かけるのに値する仕事だと思っています。僕ら定年も体力的な限界もないですから、ずっとやっていきたいです」と、若き創業者へのメッセージを伝えた。
(AbemaTV/『創業バカ一代』より)